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ハーバーマスのポストモダン評 その2 [メモ]


 メモ。

 もし理性が、崩壊の罰に曝されながらも、こうしたパルメニデスからヘーゲルに至るまで追求されてきた古典的な形而上学の目標を追い続けることで持ち堪えられるものなら、そして理性がヘーゲルのあとでもなお、壮大な哲学の伝統がそうだったように理論、真理、体系といった強力な概念に固執するか、あるいは理性自身を放棄するかの二者択一を迫られているのなら、それに応える理性批判は根本的な次元を実際に据えなくてはならないだろうし、その場合には自己言及性のパラドクスを免れることはほとんど不可能だろう。ニーチェにはそう思われたのだ。そして不幸なことにハイデガーやアドルノそしてデリダまでもが、哲学のなかに維持されてきた普遍主義的な問題設定と、その答を与えると主張してきた哲学の自己の地位に対する自負とを混同しているようだ。だがこうした哲学の自負はとうに取り下げられてしまっている。現在の考え方によれば、普遍主義的な問い――たとえば発言の合理性によって必要な条件、コミュニケーション的行為と議論の一般的語用論的前提などに関する問題――の射程が、普遍的な発話の文法形態に必ず反映していると見ることができるのは明らかだ。すなわちその問題の射程は、普遍的な問いやその理論的枠組みに必要とされる妥当性の無制約性や「究極的な根拠づけ」の無制約性という形で現れてくるのではない。諸科学がもっている可謬主義的な意識はもう哲学にも引けをとらないところまで達している。
(近代の哲学的ディスクルスP371)





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