ねばならない [メモ]
メモ。
この一節では、デリダの著作にもっとも一貫して現われる主張のひとつが繰り返されている。すなわち、予見可能な未来へと開かれていなければならず、有限性と脆弱性がなければならず、物であれ人であれ、やって来るものに対して開かれていなければならないという主張だ。この「ねばならない」というステイタスが正しく理解されなかったせいで数多くの、影響力の大きな誤解が生じてきたのだが、本書において私はそれに吟味を加えるつもりだ。それらの誤解の共通点は、デリダの議論を規範的な様相をもつものとみなしてしまっていることにある。われわれが他者に開かれていなければならないのはなぜかということの超-超越論的な記述が、われわれは他者に開かれているべきだとする倫理的な命令と混同されている。ところが構造的に他者へと曝されているという事態からはいかなる規範やルール、命令も引き出せないということを、デリダはつねに主張している。他者はいかなる物ないし人でもありうるし、それに対してどのように行動すべきかを前もって知っておくことはできない。それどころか他者への関係は時間の到来と不可分だ--つまり他者は絶えずその特徴を変化させかねない。先に引いた一節でデリダが強調しているように、他者はもはや、あるいはいまだ存在しないのだから、それに立ち向かうことも、ただそれと対峙することさえもできない。決してそれ自体として与えられることはないから、私が決定的な[生命にかかわる]好機(チャンス)として受け入れるものが致命的な脅威に転じることもありうる。
(無神論P60)
自己免疫性 [メモ]
メモ。
その名に値する出来事が起こるのだとすれば、その出来事は、あらゆる支配を超えて、受動性を触発せねばならない。つまり出来事は、絶対的な免疫性も何の補償もなしに、自らの有限性のなかで地平なしに、剥き出しの傷つきやすさに触れねばならない。その場合には、他者の予測不可能性に対して立ち向かうことは依然としてできない。あるいはもはやできない。この点からみれば、自己免疫性は絶対的な悪ではない。その自己免疫性は、他者に曝されること、すなわち到来する物ないし人--したがって計算不可能にとどまるほかないもの--に曝されることを可能にするからだ。もし絶対的な免疫性があるばかりで自己免疫性がないとしたら、もはや何も起こらないだろう。こうなると、もはや待つということも期待するということもないだろうし、互いに期待しあうことも出来事を期待することもないだろう。
(ならず者たち P290 無神論P60)