アリストテレスの時間論 [メモ]
単なる、無意味かつ断片的なメモ。
詳細は後程ということで。
現前の形而上学に対して、痕跡の脱構築を対置させようとするのであれば、たぶん、さらにそれらの対置関係を脱構築しなければ、時間論には到達しない。
はっきりと「現在性」を括弧に入れて考える、ということが前提になるなら、その後の展開は容易だろうが、デリダはフッサール的な「現前性」、つまり「現在性」を除外することはない。
なぜならば、「現前性としての存在」が「死すべきもの」だという主張は、デリダの前提に近いところにあるからだ。
存在するものから思惟するものへの運動(移動)が、初めて不死の思想を呼ぶ。
それは現前性とイデア性の関係だ。
形而上学批判が形而上学へと回収されるのは、抑圧されたものや排除されたものが現実界で回帰するようなものだ。
というわけで、オレたちが考えることを抑圧してきた「時間論」は、きっと21世紀には必要だろう(あるいは、必要かどうかは別として勝手に回帰するだろう)と、希望をもって考えることにしておこう。
日本の哲学
日本の哲学を語るときには、実は政治性が強くからんでいる。
これはもともと水害に弱い地域に住む民族としての宿命なんだが、「観念的な神」を考えるよりも、膨大な実作業を権限とともに「(政治的な意味で)有能な少数者、組織」へと与えてしまう。
オレがなかなか政治方面に踏み込まないのは、メンドクサイから、そこら辺を避けて通ってしまいたい、という、ある種の逃走論によるものだ。
オレの知る限り、多くの日本の哲学者は、西洋哲学を導入した後、自らを振り返ったときに、見え隠れする日本の政治性を捉えようとすると、結果として「反権力」への志向として表現してしまうことが多い。
これもまた、西洋の表面的な真似事になってしまっているなあ、と思う。
反権力的な姿勢が哲学的だという愚かな認識・・・。
西洋の反権力は、その思考パターンの源流はカトリック(観念的な神学的思考)に対する反発にある。
なので、哲学的だ。
ところが日本の反権力は、単なる現政権に対する批判にすぎない。
だから、非哲学的だ。
・・・いやこれはオレの独り言だから気にしなくてよいです。