科学者のディスクール
資本家のディスクールに続いて現代を表すものは、たぶん科学者のディスクール(統計的超自我に関連する仮説)だ。
資本家のディスクールは「去勢」を排除し、科学者のディスクールは「父の名」を排除する。
「去勢」も「父の名」もない時代に、精神分析の臨床がどういう役割を果たすのか(・・・おそらく、20世紀半ばまで機能していたものは、すでに消失しているだろう)、という根本的な問題に目をつぶれば、実に興味深い考察だ。
死後の生
きわめて個人的な意見だが、死後の生は存在しない、と思う。
「可死」は普遍的だが、死後の生まで言及するのは行き過ぎかと。
なぜならば、それは容易に不死を連想させてしまうから。
そして、それに希望はないから。
・・・もちろんベンヤミンや高橋哲哉氏の「流れ」を受けてのことだということはよく理解しているつもりだが。