一つの軸
とはいえ、一つの軸を与え、それを中心として一貫性のあるものとして読み替える。
そういうやり方は誤りではない、・・・すべてではない、という前提を忘れなければ。
それは、教育的配慮として、つまり「相続」として必要な手段だ。
決して正しいわけではないが、何をもって正しいとするのか、という議論が起こるだろう。
その抜け落ちたものをどう拾うのか、という課題が残っているにせよ、それはまた別の「相続」の問題だ。
簡単に言えば、複数の相続、というのは当たり前だし。
やみくもに
オレたちは脱構築を考えるとき、後先考えず、すべてをやみくもに脱構築しようとする。
そうすると論理的一貫性がなくなる。
なぜならば、単純化して言うと、論理的一貫性をも脱構築してしまうからだ。