アリストテレスの時間論 [メモ]
単なる、無意味かつ断片的なメモ。
詳細は後程ということで。
現前の形而上学に対して、痕跡の脱構築を対置させようとするのであれば、たぶん、さらにそれらの対置関係を脱構築しなければ、時間論には到達しない。
はっきりと「現在性」を括弧に入れて考える、ということが前提になるなら、その後の展開は容易だろうが、デリダはフッサール的な「現前性」、つまり「現在性」を除外することはない。
なぜならば、「現前性としての存在」が「死すべきもの」だという主張は、デリダの前提に近いところにあるからだ。
存在するものから思惟するものへの運動(移動)が、初めて不死の思想を呼ぶ。
それは現前性とイデア性の関係だ。
形而上学批判が形而上学へと回収されるのは、抑圧されたものや排除されたものが現実界で回帰するようなものだ。
というわけで、オレたちが考えることを抑圧してきた「時間論」は、きっと21世紀には必要だろう(あるいは、必要かどうかは別として勝手に回帰するだろう)と、希望をもって考えることにしておこう。
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