男は白痴
男は白痴だから、女性の「無知」を過小評価する。
女性は優しいから、そういう白痴な男をただ一人だけ、一人の女の立場から愛する。
ということを書き始めるとと、精神分析など無用の長物ということがわかってしまうので、なるべく記すのを控えよう・・・とは思わない。
カモフラージュ
いつものように剽窃によって生きる。
それをカモフラージュできれば、さほど困るまい。
とはいえ、オレは困るけど。
優れた性 [メモ]
メモ。
過度の単純をおそれずに言えば、男性よりも女性の読者の方が概して優れています。
(傷つける真理 P63)
残念ながら、彼が、これほどまでに慎重に言葉を選んだとしても、これは「権力者の言葉」に違いない。
「権力者の言葉」とは、過度の単純をおそれずに言えば、彼自身の言葉だ。
移籍額その3 [サッカー]
ちなみにネイマールは2憶2,200万ユーロ(280億円)で売れた。
これも適正な額とは言えないが、先日のCLを見ればわかるように、それなりに活躍していると思われるので、買った方はまあまあなのかもしれない。
なのでメッシの7憶ユーロ(875億円)という設定は、非常識だ。
ネイマールのことを考えれば、経済効果を考えても2憶ユーロレベルが妥当だろう。
移籍額その2 [サッカー]
デ・ヨングが8,600万ユーロ(108億円)というのも高いような気がするが、まあまあ試合に出てるしフィットしつつあるし、技術は高いし、性格はまじめだし、ブスケツの後継者的な意味もあるし、なんといってもバルサのイメージに合っているので、今後の期待値も含めれば良い移籍だった。
というか、前回の3人をそれぞれ8,600万ユーロで売れるか、というと今となっては難しいのではないか。
つまり、金があればいいってものではない。
移籍額その1 [サッカー]
バルサの失敗したと言われる移籍額を確認しておこう。
いずれも推定額というか報道された額。
コウチーニョ 1憶4千万ユーロ(175憶円)。
デンベレ ボーナス込みで1憶4千5百万ユーロ(181億円)。
グリーズマン 1憶2千万ユーロ(150億円)。
いずれもバルサに金のあるときで、交渉相手に足元を見られた感じがする。
ネイマールの代わり・・・つまり得点能力を期待されたことを考えれば、結果としては失敗だ。
メッシのインタビュー [サッカー]
「GOAL」のメッシ・インタビューを動画で観た。
相当こじれている。
たぶん契約のことを知っていながら、会長は「シーズン終了後に自分が残るかどうかを決められる」と言っていたと思われるので、メッシ側はもっと想定外の状況における契約の適用について確認しておけばよかったことになる。
としても、コロナの影響で日程が伸び伸びとなり、選手は6月10日の時点で必死に首位争いをしていたわけで(例えば6/13は第28節マジョルカ戦)、それを考慮に入れない会長側の反応では、契約の解釈として正しいにしても、選手側の信頼を得られない。
会長の過去からの一連の動きを振り返れば、むしろ選手からの反発を得ようとしているようにすら感じる。
要するに会長は、クラブに莫大な利益をもたらしてきたカピタンが悩んでいるときに、腹を割って話そうとしなかった。
それが一番の問題だ。
オランダ化の続き [サッカー]
フロントは年俸差だけを考えてのトレードを画策しているのではないかという噂があり、方針がどうなっているのかよくわからない。
ここで考えるならば、単純に言えば、「ビダルの忠告の言葉」に反することをするのが一番無難だ。
それをできるようにするのが「レジェンド」のクーマンの役目であり、フロントの役割だと思う。
混乱の時こそ基本に返る。
今いる高価な選手たちを充分に活用しながら、ラ・マシアの選手たちの成長を待つ、あるいは買い戻すというのが本来のバルサ・フロントのあるべき戦略だろう。
フロントと選手側の対立がここまで表面化するのは実に不健全で、まずはその修復が復活の第一歩か。
ということは、やはり会長選が終わらないと改革は始まらず、クーマンはしばらくクラブ内の混乱の中で結果を出し続けなければならないという、ひたすらやりにくく、嫌われる仕事を続けることになる。
オランダ化 [サッカー]
果たしてバルサのオランダ化は進むのか。
仮にワイナルドゥムとデパイが来たら、バルサは哲学から離れ、普通のチームへと変わるだろう。
当面は哲学より結果を求められることになるので、クーマンは選手の特性を考えて、ドブレピボーテにすると思うが、2ポジションをピャニッチ、デ・ヨング、ブスケツの3人で争う。
トップはグリーズマン(時にはデパイ)で、右がメッシかデンベレ、左がデパイやファティ、トップ下はコウチーニョかワイナルドゥム(時にはメッシ)。
しかし、自由人(いわゆる「トップリベロ」)がメッシとデパイの二人になると混乱が生じる(あるいは「今までと同じ」と言われる)ので、同時起用は戦術的に難しい。
代表でクーマンとの相性はいいかもしれないが、マンUでのつらい経験を考慮すれば、デパイは高い自由度を求めるので、たぶん来ない(・・・「個人合意で移籍交渉成立見込み」というスカイスポーツの報道あり)。
ラウタロは高くて資金がない、デパイは来ない、となると、スアレスがスーパーサブで残ればいいという考え方もある。
精神分析は盛んではない
結局、思想的な側面ばかりクローズアップされ、臨床としてはイマイチ・・・というイメージがある。
もちろんそうではない先生方もいることをオレは知っている・・・が。
精神分析は選民思想
いや実はそうでもないかも、なんだが、そういう風に言われても仕方がないほど排他的なイメージがある。
なぜならば、精神分析は、なかなか認知されなかったからだ。
てゆーか、汎性欲論という立て付けの「学問」「手法」として、大手を振って生き延びるのが難しいことは容易に想像できる。
だから、精神分析サイドは少しいじけて、結果として選民思想的な態度をとっている、という気がする。
苦しんでいる人 [メモ]
メモ。
ラカンはデリダのことを「彼と私の違いは彼が苦しんだ人と関わっていないということだね」と言ったことに対し、デリダは「何という誤解だろう。私は苦しんでいる人すべてに関わっているというのに」と憤慨したという。「苦しんでいる人」とは誰よりも若き日の自分自身のことだったろう。
(十川幸司「誰も彼のようには……」P181)
憤慨の様子は「ラカンの愛に叶わんとして」(訳P127)に詳しい。
分析とその抵抗に関する法 [メモ]
メモ。
私はここで話を打ち切り、やや断定的に結論を出さなくてはならない。まさしく切断について。そして、分析に関する決断の逆説について。われわれが接近したもの、超分析的必要、「終わりなく分析しなくてはならない」という法、そもそも「それ=エスは際限なく自ら(を)分析する」、したがってそれは誇張分解的に分析されなくてはならない、つねに分析すべく残るという法だ、と同時に、他方では、分析への抵抗より以上ないし以下のようなものを、一切の分析的テロス(原理の、単純な要素の、根源的なものないしアルケーのもつ原理的なもの)に分析へのもう一つの抵抗を付加するあの「すべく残る」の残抗を考察に取り入れるようわれわれに命ずるあのもうひとつの法だ。
(抵抗 P66)
終わりなき・・・ [メモ]
メモ。
試みに、一つの、ただ一つの脱構築があるという、「脱構築」の唯一の命題があるという不条理な仮定に立つとすれば、その命題は分割可能性の命題、分割可能性としての差延の命題を定立することになろう。このことが、逆説的にも、ある分析主義的競り上げにおいて、あるとても注意深い思考に、分析をつねに拒絶するもの(根源的複雑化、単純ならざるもの、抹消された起源、痕跡あるいは痕跡としての贈与の肯定など)を考慮に入れるよう命じる。この逆説は単なる外観にすぎない。というのも、分析に終わりがないのは、分割可能な元素や単純な起源などというものはないからだ。
(抵抗 P64)
複数形の精神分析 [メモ]
メモ。
分析への抵抗の概念が、非偶有的ないし非偶然的な諸理由から統一されないということが事実だとすれば、その場合には、分析概念も、精神分析的な分析概念も、精神分析という概念そのものも同じ運命をたどることになるだろう。敵対においてのみ、それに抵抗するものに対する関係によってのみ規定されるものだから、精神分析が一つの概念ないしひとつの使命のうちに結集されることはけっしてないだろう。抵抗が単一でなければ、単数定冠詞付きの精神分析--ここではそれを、理論的規範のシステムとして、あるいは制度的実践の憲章として理解していただきたい--もない。
事情がこのようなものだとしても、この状況は必ずしも挫折を意味しない。成功のチャンスもまたそこにあり、芝居じみた嘆き方をするには及ばない。
(抵抗 P44)
分析による力の場への介入 [メモ]
メモ。
したがって、問題は、開示された真理をそれに抵抗するものに、単純に、まったく中立に置き換えることではなく、反対抵抗その他の対立的な諸力を能動的かつ精力的に用いつつある力の場に実効的に介入することによって、意識化へと導くことだ。抵抗は真理の単なる発見によって、症候の意味を患者に明かすことによって除去されるものではないとフロイトはつねに主張し続けた。それほどに、ある抵抗の分析とは、防衛の症候の起源や諸要素に関する理論的説明ではなく、分析的解消、抵抗をその力において分解しその場から立ち退かせる、実践的な、実効的な、情動性の分析だ。そのとき抵抗は、たんにその知解可能性において理解され伝達されるのではなく、変形され、移転され、変容される。
だからこそ、意味と真理が問題だ。
(抵抗 P39)
バルサはどうなるのか [サッカー]
仮にメッシがいなくなることを、考えてみよう。
エリック・ガルシアには来てほしいと思うが。
あとはまあ、どうでもいいか。
一流選手を並べたところで試合には勝てないし。
勝ったところでオモシロくなければ観る価値はないし。
耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ・・・のような、それほど悪いときではない。
オレたちには幸いなことに、若い力が宿っている。
とりあえず、若い力を活用する監督がいる。
そして、幸いなことに短期政権になりそうだ。
いや、会長を含め長期でも全然かまわないんだが。
ヌニェスの時代を考えれば、大いに希望がある。
勝つために・・・ではなく、育てる楽しみのあるチームになっていくのも一興だ。
基本に立ち返ろう。
敵対関係にある意味 [メモ]
メモ。
とはいえ、それが分析のなかでわれわれが出会う抵抗だから、この力関係には意味がある。そして真理が。抵抗を克服することによって、われわれは意味で一杯の夢の形成物へと到達する。進歩とは意味への接近で、この意味に徐々に近づくことだ。抵抗は解釈されなければならない。抵抗はそれが対立しているものと同量の意味がある、それが偽装するもの、転移するものと同等に意味が詰まっている。ゆえに、同等に解釈可能だ。それには、実は、同じ意味がある。ただしそれは、こう言ってよければ、弁証法的ないし抗争的に、敵対関係にある意味だ。
(抵抗 P32)
分析家による、精神分析への抵抗 [メモ]
メモ。
・・・およそ分析するということは、他者に対して、次のように言うことを意味する。私の解決を選びなさい、私の解決の方を好みなさい、私の解決を取りなさい、私の解決を愛しなさい、私の解決に抵抗しなければ、あなたは「真理」のうちにいることになるでしょう。自分の言ったとおぼしきことを深淵化しつつ付け加えておこう。この場面の回避不可能な真理に対し、場合によっては真理の名において異を唱えることは、否認においてしか可能でないと。この真理には、否認しか対置できない。だが、真理の名における否認は任意の否認ではない。だから、深淵が生じる--そしてそれこそが問題の一切だ。ああ、たぶん学者は、そしてとりわけ分析家は、私がいま述べたことをたぶん肯んじないだろう。
(抵抗 P26)
ドミニク その4 [メモ]
メモ。
続く5、6回目の面接では、一次去勢の問題がより明確に現れている。とくにドルトが一番興味深かったという6回目の面接で、ドミニクは周囲の人間を素材に人間にとっての性の意味を問い、そのなかで曖昧な性を断念し、さらにファルスの意味を問うところまできている。もっともドルトはドミニクの話をすべて理解したわけではないが、自由に空想する権利を保証してやることで、精神療法に不信感を抱く父によって面接が終わらせることになる12回目までには、ドミニクは精神病的な退行から抜け出していた。もちろんドルトも述べているように、この面接によってドミニクの精神病が治癒したわけではない。しかし少なくとも、死の欲動に降伏しかかっていた欲望は、この面接のなかで再び息を吹き返した。
(春木 歓待 P158)
ドミニク その3 [メモ]
メモ。
ドルトは「無意識的な負債が継承されて、第二世代、あるいは第三世代の子孫の一人が活力を奪われることになる」と指摘しているが、十分に「言われることのなかった」家族の心的外傷は、次の世代の子どもにまで引き継がれていく。
(春木 歓待 P157)
ドミニク その2 [メモ]
メモ。
ドミニクは母親のフェティシズムの対象となって支配されていた。親の欲望に自分の欲望を譲り渡す子どもに、「主体」が到来することはない。母親は自然な愛情という名のもとに、子どもを「血の通った生きた人形」にしてしまった。また母親自身が一次去勢を乗り越えていないことが、この倒錯的構造の導入に寄与している。
(春木 歓待 P157)
ドミニク その1 [メモ]
メモ、 ドルトの有名な症例。
ドミニクは、彼自身や彼のお気に入りの人物を動物に投影しているが、彼らがどちらの性に属しているのか分からない。そのため彼らは、神聖なもの、憧憬されるもので、性的欲望の埒外にある。
(春木 歓待 P156)