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脱主体化の次


 気づかなかったが、「脱主体化」の次は「脱定冠詞化」だった。







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曖昧な性関係


 性関係はない、についてはフィンクでさえ、あいまいな表現に終始している。

 ラカンは大したことを言っていないのに。

 理解不足や誤解(の振り)が、新たなる概念を生み出すかもしれない。

 だから、わざとそうしているに違いない。






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ラカン派


 ラカン派は、ヘーゲルの言うところの「市民社会」を形成しない。

 なので家族的だ。

 それが危険なんだが、その危険を熟知していたのは他ならぬラカンで、それ以外のラカン派はあまり自覚的ではない。

 もちろん、「彼らは無自覚だ」というつもりはない。






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ナショナリズム [メモ]


 メモ。

 そもそも近代のナショナリズムというものはつねに民族の古来の伝統と称するものを後からでっちあげたのではなかったでしょうか。

(浅田彰『「歴史の終わり」を超えて』中公文庫P66)








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セックス・ピストルズ


 オレたちがセックス・ピストルズというバンドに見出しているのは、混乱だ。

 オレたちはいつでも混乱の中にいるが、オレたちはそれを忘れようとしている。

 バンドはオレたちに「お前たちは今ここで混乱の中にいるんだぜ、それが人生なんだぜ、それが現実なんだぜ」と叫び続ける。

 逆に言うと、そう言い聞かされているときだけ、オレたちは混乱を自覚し続けている。

 つまり、結局オレたちは、日常生活では混乱を忘れている。

 言い換えると、オレたち自身の混乱を、バンドに押しつけることでしか、自覚できない、ということだ。






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偽の暴露と真理との関係


 オレたちはネットで好きなだけ偽の情報を書き殴り、真実が書かれているのは自分たちの書き込みだけだ、と断言する。

 もちろんそれは本意ではないことを、オレたちは自覚している。

 単に「知っていると想定された主体」の位置に、自分を置いてみたいだけのことだ。

 しかし、本当に問題なのは、オレたちの書き殴る偽の情報が、たまたま真実を言い当てていたとしても、それが真実だと言えないことだ。

 さらに、もっと問題なのは、真実は後からやってくるだけで、事前には存在しないことだ。

 つまり、オレたちは書き殴ることによって精神の安定を得る、という以外の何ごともなしていないことに、気づき、反省し、心を入れ替えたうえで、・・・そのような書き殴りを継続していくしかない、という絶望的な「真理」をどれだけ自覚しているのか、その自覚こそにオレたちの存在意義があるのではないか、いやそこにしかオレたちの生きる意義はない、と断言することで、オレたちはやっと安眠できるのではないか、いやむしろ不眠への・・・。






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見せかけ


 対象aもシニフィアンも見せかけだ。

 他者の欠如は見せかけではないが、幻想をともなうケースが多いので、そこに見せかけがあると言えるかもしれないし、享楽の主体(としての対象a)がそこに居ると考えられるのかもしれない。

 とすれば、主体は三界のどこに属そうとも、見せかけによって翻弄されていることになる。






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二つの主体 [メモ]


 メモ。

 ジャック・アラン・ミレールがその未刊行の講義『それゆえ Donc』(1993-1994)で述べていることによれば、実際のところラカンの仕事には二つの主体があると言えるだろう。シニフィアンの主体と享楽の主体だ。

(以下はこの二つの主体についての註より)

 後者(享楽の主体)はしばしば対象aという名前で呼ばれている。

(『「エクリ」を読む』 訳P202)


 ・・・これって結構、楽しい話題だ。

 なぜならば、アンコールの享楽の図の真ん中の位置に、享楽=真の穴のみならず、(享楽の主体としての)対象aを(既に置かれている対象aとは別に)置くことが可能になるからだ。






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アンコールの享楽の図


 あれは頂点と底辺のペア関係だろう、と気づいたのは、オレだけではあるまい

 ジジェクの説明でもつじつまが合わないので、そう気づいた。

 現実界からはみ出した享楽を中央に置いて、無意識の主体は三界をぐるぐると徘徊する。

 ぐるぐる回るうちに主体はバターになってしまうんだが(おいおい)、そのバターはいつの間にか凝固し、頂点と反対側の底辺に、関連する記号(「現実界 → 他者の欠如という真理」、「象徴界 → ファルスのシニフィアン=象徴的現実性を付与するもの」、「想像界 → 見せかけとしての対象a」)へと変化する。

 享楽に振り回される主体と、その効果により、享楽の周囲に残された三界の落とし物、「シニフィアンの欠如」や「欠如のシニフィアン」から派生する落し物、まさにラカン的な無意識世界の主人公たちが、そこにいることを示している。

 なお、空間的に言えば、享楽の場所はまさに「真の穴」と呼ぶべきだろうが(見た目は「袋の中」のようだ)、真の穴(の周囲)を取り囲むのは「文字」(「文字a」)なので、この図とはまた別の話(多分サントームの話)になる(念のために追記しておけば、精神分析では「真の穴」を重視しない)。

 ただ、このような図の説明、解釈にどれだけの価値があるのか、よくわからない。
アンコール図.jpg





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ジジェクの不足


 晩期ラカンを語るには、ジジェクは不足している。

 ・・・つまり、晩期のラカンは、政治的(革命的)主体を語るにふさわしくないことを意味している。






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PRNC [メモ]


 メモ。

 多元主義、相対主義、ニヒリズム、シニシズム。






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民主主義とは何か


 Mガブリエルは、民主主義は二層だという。

 一層目は、順法主義。

 オレたちの欲望を、市民社会は、法律によって制御する。

 家族的社会では暗黙の了解で制御するが、そのような曖昧な基準では、現代の複雑な欲望を制御できず、ナチス的政治体制を生む可能性がある。

 二層目は、「自由」、「平等」、「連帯」の三点セットだ。

 自由は、カントによる、超越論的構想力の挫折として表現されるんだが、現代社会では過度な法(超自我)と過度な快(享楽)によって表現されている。

 平等は、「多元主義」によって意味を変えられている、そもそも多元的に分離することが平等ではない、というわけで、多元主義は差別主義を前提に持っている。

 なので、オレたちは「連帯」しなければならない、というのがガブリエルの主張だ。

 もはや「友愛」では足りない。

 なぜオレたちは税金を払うのか、そこから考えてみるのが、いいかもしれない。

 

 





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否定神学のもとに滞留せよ


 穴そのものに滞留すれば、穴に飲み込まれる。

 だから、欠如に滞留する。

 飲み込まれない穴があるとすれば、ただの穴ではない。

 それは文字に囲まれている。


 ・・・たぶんこれは後で撤回されるかも。






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株式投資のコツ [株式投資]


 株式投資のコツなど存在しないことは百も承知で述べておくと、オレたちが株で惨めに負けないためには、ハイデガーの技術論に出てくる「総かり立て体制」・・・つまり、技術の発達によって人間の行動に効率性が求められてくる、という社会的かつ心理的背景にとらわれ過ぎないことだ。

 内藤哲也が言うように「トランキーロ、焦んなよ」というわけだ。

 株価はほとんど予想通りに動かない。

 多少のズレは想定の範囲内としておかないと、パニックになる。

 そういう意味で、株は心理学だ。
 






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相互的 [メモ]


 メモ。


 それでは、それでは、では愛は、愛はいつでも相互的なのか? 

 そうだとも、そうだとも。

(アンコール 訳P12)









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精神分析と相互受動性 [相互受動性]


 メモ。

 こうした相互受動的な対象への依存は、精神分析治療のダイナミックをも説明しないだろうか。ここで私たちが考えていることは、彼(女)の欲望、その象徴化の真実、そうしたことに直面することを回避するために、患者は彼[分析者]を誘惑し、彼と恋愛関係に入ることを試み、分析家の欲望の受動的対象として彼女自身を差し出す、などという月並みな事実などではない。むしろ相互受動性は、分析家がそこに平然とした様子で存在するという状況のもとで、この「分析者が私から必要としていること」のトラウマ、分析家の欲望の暗黒点とうまく折り合いをつけるために、[分析対象者としての]主体が、治療の間中、物語や記憶を語り、その宿命を哀れみ、非難するなど、絶え間なく能動(行為)的となるときにこそ、介在する。患者としての私が能動(行為)的なのは、私が分析者の謎めいた沈黙に飽き飽きしたり、苛立ったりするというようなことに原因があるのではなく、おそらくそれ以上の理由がある。すなわち、患者の私が能動(行為)的なのは、他者(分析家)を黙らせておくためで、またその結果、何事も起きないようにすること、分析家が絶え間なく泡立つように語られる私の見せかけの内容のなさを暴露する言葉やその他の振舞いを言い触らしたりあるいは行ったりしないようにすること、そういう目的をもっている。こうした事例によって相互受動性の基本的特徴とはどのようなものかが再び明らかになる。それは、他者が私に成り代わる、あるいは他者が私のために何かをする、という状況を指示しているのではなく、その正反対の状況、すなわち、私は他者の受動性によって、絶え間なく能動(行為)的で、そうすることで私の行動を維持するという状況を指示している。

(いまだ妖怪は徘徊している 訳P62-63)


 この観点は、政治的には「真の問題が明らかにならないように、アイデンティティなどの流動的な問題がずっと議論されている」というような話へと展開していくんだが、この引用した部分だけを切り取ると、実に興味深い。






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ジジェクの小話のさらにその先 [メモ]


 メモ。「亡命の理由」の小話続き。

 「理由は二つです。一つ目の理由は、ロシアでは共産主義が永遠に続き、この地では現実に変わるものは何もないことは分かっているのです、そう思うだけで耐えきれなくて……」。「しかし」と官僚は口を挟む。「そんなことはナンセンスじゃないか。共産主義はあちらこちらで崩壊している最中だから。共産主義の諸悪の責任を負うべき者は厳しく罰せられるだろう」。ラビノヴィッチは落ち着いて答える。「実はそれが二つ目の理由なんです」。

(『為すことを知らざればなり』 邦訳P2)

 このような、小話のふたつの異なる展開を考える中で、自己言及的な円環構造こそが、ドイツ観念論のキモなのか、違うのか、よく考える必要がありそうだ。








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あまりにも有名過ぎて、逆に忘れていたジジェクの小話 [メモ]


 メモ。ラビノヴィッチをめぐる小話。


 出入国管理局の官僚が亡命の理由を尋ねると、ラビノヴィッチはこう答える。「理由は二つある。一つは、ソ連では共産主義権力者が権力を失うんじゃないかと、怖いんだ。新しい権力は共振主義者の犯罪をすべてわれわれユダヤ人になすりつけるだろう。またユダヤ人虐殺があるだろう……」。「しかし」と官僚が口を挟む。「それはまったくのナンセンスだ。ソ連では何も変わるはずがない。共産主義者の権力は永遠に続くだろう」。ラビノヴィッチは落ち着いて答える。「実はそれが第二の理由だ」。

(『イデオロギーの崇高な対象』 単行本 訳P267)


 ジジェクの解説によると、亡命の第一の理由はテーゼ、官僚の反論はアンチテーゼ、ジンテーゼは定立の回帰ではなく、反定立によって作られた傷の治療に当たる、つまり、ジンテーゼはアンチテーゼとまったく同じだという。

 言い換えると、否定こそが「総合」だということになる。

 ジジェクはこれをさらに言い換えて「限界は超越に先行する」とも述べている。

 このようなヘーゲルの読み替え(本来あるべき、そしてアンコール(の第七節)までのラカン的な、その先にいる晩年のラカンとはやや離れた観点からの、ヘーゲルの読み方)こそが、ジジェクの基本的な思考構造になっている。

 敢えて言うならば、マテームやボロメオの輪で遊ぶよりも、否定神学的なダイナミズムを強調することで、認識論的断絶によるパラダイム・シフトを起こそうという、意思がそこにあるような気がする。

 この意思は、シェリングの歴史哲学的な発想に近い。

 とするならば、この意思は、徹頭徹尾「政治的主体」を強調する立場に居続けるジジェクの宿命なのかも。






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ジジェク的なガブリエル [メモ]


 メモ。

 自我は自己対象化によって、自らが作り出し規定された世界秩序の一部になってしまうか、あるいは、自己の客観性の永続する否定に避難場所を見出そうとすることで、いっさいの規定性を--無規定だという規定性さえも--失ってしまうかのどちらかでしかありえない。

 自我が両義的なままのは、それが決して主張されることができないためだ。絶対者をなんらかの安定した原理として把握できるという根深い信仰は、根絶されなくてはならない。そして、その代わりに、我々は概念的媒介の脱構築を実践しなければならない。フィヒテはそれを「概念の破壊(概念の無化)」と呼んだ。こうした(原則的に完遂不可能な)実践は終わりのない先延ばしというポストモダン状況を予期するものだ。結果として、絶対者は先延ばしの行為となる。フィヒテの要点は、絶対者(自体)の把握可能性を根絶することではなく、むしろ、絶対者は先延ばしそのものだという鋭い洞察だ。概念的相対性を媒介にした絶対者の歪曲が絶対者そのものだ。

(『神話・狂気・哄笑』 訳P53)






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カントの狂気 [メモ]


 メモ。

 カント以前の世界において、人間は単に動物的な欲や神的な狂気という過剰と戦う人間、理性的存在者だったのに対して、カントとドイツ観念論以降、戦いが挑まれるべき過剰はまったくもって内在的なものになり、主体性そのものの核心をなすものになった(だからこそ、自身を取り囲む闇と戦う「理性の光」という啓蒙主義的な概念とは対照的に、ドイツ観念論では主体性の核心を表すメタファーが「夜」や「世界の夜」となった)。

(『神話・狂気・哄笑』 訳P305)

 いつものジジェクの強引な我田引水なんだが、オモシロいからこれでいい。






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空虚について [メモ]


 メモ。ヘーゲルの世界の闇夜(世界の夜)と関係している(というよりやや未来(?)に進んで、晩期ラカンに近づいている)ので紹介する。つーか、これがドイツ観念論です。


 本章を通じて見ていくように、すべてを包摂する無に直面して言語が失敗するという事実は、最終的には、無を覆す創造的エネルギーを放出する。それゆえ、[何も存在しないわけ]ではなく、何かが存在している。空虚を名指そうとするわれわれの絶えまない活動において、無は何物かになる。より正確に言えば、空虚はもちろん空虚でさえない。というのも、「空虚」はシニフィアンの連鎖における別の単称名辞の一つにすぎないからだ。もし空虚なるものを指示する方法がないといれば、つまり、もしいかなる超越へのアクセス方法もないとすれば、それを空虚として記述することで、空虚を指示することさえできない。「空虚」は(二つの項の間の適当な関係ではないようなこの関係を、好みのどんな仕方で呼ぼうとも)いかなる命題として語られる環境にも先行し、それを超越し、越えていく。いかなる理解可能性の内部でも、あるいは私が宇宙論的モデルと呼ぶものの内部でも、「空虚」を捉えることはできない。

(『神話・狂気・哄笑』 訳P39)


・2021/10/15記入
 この文章は、いったん「空虚」を「限界」と読み替えて、その後元に戻せば、ロジックがスッキリする。



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新実在論の二つの前提 [メモ]


 メモ。

 では「新実在論」の話をしましょう。ここで確認しておきたいのは、私にとって観念論は正しい哲学の前提にすぎないということです。私自身の哲学の第一原理、「新実在論」は、この観念論の伝統を継承したうえで構築しました。

 そして、私の「新実在論」の第二の前提は、私が「世界」と呼ぶものは存在しないということです。

(MG「欲望の時代を哲学するⅡ」P133)







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インターネットで探す、イラつく


 インターネットでいろいろ探すんだが、オレの欲しい「文章」がなかなか見つからない。

 探し方が下手というのもあるが、オレの欲しい文は他の人が引用したくなる文章とは違うらしい。

 同じだと気持ち悪いからそれでもいいんだが。

 そういうわけでインターネットにはイラつくことが多い。







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精神の夜 [メモ]


 メモ。例によって「世界の闇夜」を引用した後の話。


 繰り返しになるが、この叙述の詩的な力に目をくらまされてはいけない。この叙述は文字通りに読まれるべきだ。まず注意すべきは、この「精神の夜」の中をほうぼう自由に浮かんでいる諸々の対象が、いかに引き裂かれた部分で、部分対象、その有機的な「全体」から引き剥がされた対象か、ということだ。--この叙述と、「悟性」の否定的な力についてのヘーゲルの叙述との間には、奇妙なエコーが響いてはいないだろうか。悟性の否定的な力は存在者(過程、特質)をその実質的な文脈から抽象し、それがあたかもそれ自身で存在しているかのように取り扱うことができる[とされる]。「周囲のものから引き剥がされた偶有的なものそのもの、[あるいは]他との関連に結びつけられその中でのみ現実にあるようなものが、それ自身の存在と分離した自由とを獲得するということ--このことが否定的なものの絶大な威力だ」(引用者註:これは『精神現象学』の序言、「否定的なものの滞留」の手前辺りの表現)。ゆえにそれはあたかも我々が、「世界の夜」のおぞましき光景の中にあって、自然状態にある「悟性」の力のような何物かと、原-精神という擬態をした精神と遭遇しているようなものだ。--これはおそらく、恐怖についてのもっとも正確な定義のひとつだ。[つまり恐怖と遭遇するのは]発展上の高次の段階がその低次の段階の中に、つまりその根拠/前提に自らを暴力的に刻み付けるときで、そこでこの高次の段階は他ならぬ化け物じみた乱雑さとして、秩序の崩壊として、自然の諸要素間の恐ろしく不自然な整合として現れてくる。

(『神話・狂気・哄笑』 訳P221-2)







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激しく崩壊していく


 激しく壊れていくのはドラマチックだが、周囲の手に負えない。

 ただ、もはや自分たちの手に負えない、という、周囲との共通認識を得ることができる。

 それだけが救いだ。





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静かに崩壊していく


 静かに崩壊していく精神を、構造論的に表すのは不可能だとしても、その見た目は意外と単純なのかもしれない。





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超越論的


 では原抑圧を超越論的に語るとはどういうことか、個人的に考えたことはない。

 認識論的に語れないものを超越論的に語るということは、それは分析空間にすら登場しない「仮説」ということを意味している。








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原抑圧


 とはいえ原抑圧は、どのように再現されるのだろうか。

 それはきっと不可能だ。

 たぶん症候(症状)を介して、垣間見られるものか。

 とすれば、認識論的に言えば限界は超越に先行すると主張することに問題はない。





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お調子者


 調子に乗れば叩かれる。

 それは世の常だ。





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ヘーゲル


 いざとなればヘーゲルを読む。

 昔からは考えられない。





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