SSブログ

性差の図式


 性差の図式は、デュラスの小説をもとにしているのではないか、思ってしまうくらい適合性がある。

 だからといって、デュラスを読めばいいってものでもない。






nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

主体化のふたつのパターン [メモ]


 メモ。

 この新たな主体化は、大きく二つに分類される。まずは言語による主体化だ。これは存在を、それを代表して表象する対象(現象)に一致させる試みだ。ここでは、言語による分節化により、存在そのものは消失されるが、代わりに意味付与された対象(現象)が獲得される。言い換えれば、存在の消失点が意味作用の出発点となり、そこから言語によって分節化された欲望しうる対象(現象)が次々に生成される。つまり、欲望しうる対象(現象)を欲望する主体が誕生する。これは後でみるホールド(デュラスの小説の登場人物)の戦略だ。次に、言語による分節化以外の方法での主体化がある。これは先とは逆に、存在を、それを代理して表象するいかなる対象(現象)にも一致させない試みだ。ここでは、言語化による存在そのものを覆う対象(現象)が期待される。こうなると、意味作用の出発点となる消失点が定まらないため、無意味が反復し続けられる。つまり、欲望しえない対象(現象)--存在そのもの--を欲望する主体が誕生する。これは後でみるロル(デュラスの小説の主人公)の戦略だ。

(春木奈美子『現実的なものの歓待』P33-34、一部引用者の趣向により改変)


 このラカンの主体に関する理論の紹介は、まさにヘーゲルのイエナ草稿そのものから始まっていると言っても過言ではないし、また、その先にあるラカンの「性差の図式」(特に他者の享楽)を見据えているということもあり、きわめて見通しの良い考察だ。

 もちろん「言語化による存在そのものを覆う対象(現象)」とは何かを見極める必要があるが・・・ここでは仮に「自己像を伴わない状態での命名」としておく。






nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感