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空虚について [メモ]


 メモ。ヘーゲルの世界の闇夜(世界の夜)と関係している(というよりやや未来(?)に進んで、晩期ラカンに近づいている)ので紹介する。つーか、これがドイツ観念論です。


 本章を通じて見ていくように、すべてを包摂する無に直面して言語が失敗するという事実は、最終的には、無を覆す創造的エネルギーを放出する。それゆえ、[何も存在しないわけ]ではなく、何かが存在している。空虚を名指そうとするわれわれの絶えまない活動において、無は何物かになる。より正確に言えば、空虚はもちろん空虚でさえない。というのも、「空虚」はシニフィアンの連鎖における別の単称名辞の一つにすぎないからだ。もし空虚なるものを指示する方法がないといれば、つまり、もしいかなる超越へのアクセス方法もないとすれば、それを空虚として記述することで、空虚を指示することさえできない。「空虚」は(二つの項の間の適当な関係ではないようなこの関係を、好みのどんな仕方で呼ぼうとも)いかなる命題として語られる環境にも先行し、それを超越し、越えていく。いかなる理解可能性の内部でも、あるいは私が宇宙論的モデルと呼ぶものの内部でも、「空虚」を捉えることはできない。

(『神話・狂気・哄笑』 訳P39)


・2021/10/15記入
 この文章は、いったん「空虚」を「限界」と読み替えて、その後元に戻せば、ロジックがスッキリする。



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新実在論の二つの前提 [メモ]


 メモ。

 では「新実在論」の話をしましょう。ここで確認しておきたいのは、私にとって観念論は正しい哲学の前提にすぎないということです。私自身の哲学の第一原理、「新実在論」は、この観念論の伝統を継承したうえで構築しました。

 そして、私の「新実在論」の第二の前提は、私が「世界」と呼ぶものは存在しないということです。

(MG「欲望の時代を哲学するⅡ」P133)







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