ジジェクの小話のさらにその先 [メモ]
メモ。「亡命の理由」の小話続き。
「理由は二つです。一つ目の理由は、ロシアでは共産主義が永遠に続き、この地では現実に変わるものは何もないことは分かっているのです、そう思うだけで耐えきれなくて……」。「しかし」と官僚は口を挟む。「そんなことはナンセンスじゃないか。共産主義はあちらこちらで崩壊している最中だから。共産主義の諸悪の責任を負うべき者は厳しく罰せられるだろう」。ラビノヴィッチは落ち着いて答える。「実はそれが二つ目の理由なんです」。
(『為すことを知らざればなり』 邦訳P2)
このような、小話のふたつの異なる展開を考える中で、自己言及的な円環構造こそが、ドイツ観念論のキモなのか、違うのか、よく考える必要がありそうだ。
あまりにも有名過ぎて、逆に忘れていたジジェクの小話 [メモ]
メモ。ラビノヴィッチをめぐる小話。
出入国管理局の官僚が亡命の理由を尋ねると、ラビノヴィッチはこう答える。「理由は二つある。一つは、ソ連では共産主義権力者が権力を失うんじゃないかと、怖いんだ。新しい権力は共振主義者の犯罪をすべてわれわれユダヤ人になすりつけるだろう。またユダヤ人虐殺があるだろう……」。「しかし」と官僚が口を挟む。「それはまったくのナンセンスだ。ソ連では何も変わるはずがない。共産主義者の権力は永遠に続くだろう」。ラビノヴィッチは落ち着いて答える。「実はそれが第二の理由だ」。
(『イデオロギーの崇高な対象』 単行本 訳P267)
ジジェクの解説によると、亡命の第一の理由はテーゼ、官僚の反論はアンチテーゼ、ジンテーゼは定立の回帰ではなく、反定立によって作られた傷の治療に当たる、つまり、ジンテーゼはアンチテーゼとまったく同じだという。
言い換えると、否定こそが「総合」だということになる。
ジジェクはこれをさらに言い換えて「限界は超越に先行する」とも述べている。
このようなヘーゲルの読み替え(本来あるべき、そしてアンコール(の第七節)までのラカン的な、その先にいる晩年のラカンとはやや離れた観点からの、ヘーゲルの読み方)こそが、ジジェクの基本的な思考構造になっている。
敢えて言うならば、マテームやボロメオの輪で遊ぶよりも、否定神学的なダイナミズムを強調することで、認識論的断絶によるパラダイム・シフトを起こそうという、意思がそこにあるような気がする。
この意思は、シェリングの歴史哲学的な発想に近い。
とするならば、この意思は、徹頭徹尾「政治的主体」を強調する立場に居続けるジジェクの宿命なのかも。