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形而上学


 形而上学はアリストテレス(もちろんプラトンでもよいが)が元祖だ。

 アリストテレスの形而上学は、知への欲望から始まっている。

 ソクラテスのことを考えると当たり前と言えば当たり前なんだが、知への欲望、正しく言い換えると「他者の知への欲望」から始まっているということが、実に興味深い。

 オレたちがラカンを(イヤイヤながら)読まなければならない理由も、ここにある。

 いやここではラカンではなく、ヘーゲルと書くべきか。

 ヘーゲルなら「(いやいやながら)」と書かなくて済む、という利点がある。






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闘争宣言 [メモ]


 メモ。

 こうした[現代の]哲学者たちの間で普及しているイデオロギーは、正しく理解するという魔法の力を「科学」に授ける曖昧な自然主義ないしは科学主義だ。しかし、もしメイヤスーによって相関主義と呼ばれる哲学者たち、すなわち、カントやフッサール、ハイデガーのような哲学者たちが、太陽は人間よりも先に現実に存在するということを理解できなかったとしたら、当然それは非常に大きな驚きをもたらすだろう、観念論も現象学も、人間存在を、太陽、天の川、ナイアガラの滝といった特定の対象の存在の作用因とするような存在的理論ではない。経験の可能性の認識論的条件が、あるいは、規定性一般の可能性の存在論的条件さえもが、存在するというのは、二階の反省の主張だ。[それゆえ]この主張は、内在的実在論と完全に両立可能だ。それは、ある枠組みが固定されるとすぐに[対象の]指示が生じることを、それゆえ普通の真理(と虚偽)が生じることを許容する。メイヤスーの相関主義批判は、単純に存在的な(一階の)理論化と存在論的な(反省的な)理論化の区別を見逃している。

(神話・狂気・哄笑 訳P165)


 二階建てにすると、「メタ言語が存在する」ようになり、論理に亀裂が生じてしまう、・・・だからこそ、イギリス経験論的哲学や現代で主流の科学的哲学が、二階建てを拒否する、・・・なぜヴィトゲンシュタインが『論考』を棄てたのか、すっかり忘れてしまったかのように。

 言い換えると、純粋な論理はつねに一階建てに過ぎない、ということだろう。

 形而上学は、すでにつねにいまだ「メタ」で、逆に言うと「メタ」でしかない。






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