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見せかけ


 対象aもシニフィアンも見せかけだ。

 他者の欠如は見せかけではないが、幻想をともなうケースが多いので、そこに見せかけがあると言えるかもしれないし、享楽の主体(としての対象a)がそこに居ると考えられるのかもしれない。

 とすれば、主体は三界のどこに属そうとも、見せかけによって翻弄されていることになる。






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二つの主体 [メモ]


 メモ。

 ジャック・アラン・ミレールがその未刊行の講義『それゆえ Donc』(1993-1994)で述べていることによれば、実際のところラカンの仕事には二つの主体があると言えるだろう。シニフィアンの主体と享楽の主体だ。

(以下はこの二つの主体についての註より)

 後者(享楽の主体)はしばしば対象aという名前で呼ばれている。

(『「エクリ」を読む』 訳P202)


 ・・・これって結構、楽しい話題だ。

 なぜならば、アンコールの享楽の図の真ん中の位置に、享楽=真の穴のみならず、(享楽の主体としての)対象aを(既に置かれている対象aとは別に)置くことが可能になるからだ。






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