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続・ジジェクはこう読め その3


 ヘーゲルの紹介者として読む。




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続・ジジェクはこう読め その2


 ポール・クローデルの作品を紹介している者として読む。




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続・ジジェクはこう読め その1


 精神分析の導入として読む。




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ブレードランナー2049の主旋律


 ついまた観てしまった。

 SF映画としてはさほどの出来ではない(映像は素晴らしいが、展開は冗長でマニア向き)のに観てしまうのは、前作を含めてある種の思想として捉えているからだろう。

 レプリカントの苦悩は、「記憶」にすがりつき、それにすべてを賭けていることだ。

 だから、レプリカントと人間を分ける目安の一つは、その記憶が本物かどうか、だ。

 ところが結局レプリカントは、「記憶」が偽物だと気づき、自分が人間ではないことを知る。

 「記憶」に自らのすべてを賭けるという喪失のあと、さらに「人間ではないことを知る」という喪失を経験する、つまり二重の喪失だ。

 しかし、その二重の喪失は、もともと人間が幼少期に経験する構造と同じだ。

 だから、レプリカントが二重の喪失を経験すると、ますます人間に近くなる。

 これがこの映画のキモというか、少し聴き取りにくい主旋律というか、物語の前提にあるものだ。






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シェルショック


 シェルショックは、寝椅子のうえの言葉をとおした療法では難しい。

 明らか過ぎる精神的外傷は、実践的には投薬療法(VRセラピーという手法もあるらしい)の範疇ではないだろうか。






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ヘーゲルと精神分析 [メモ]


 メモ。

 (中略・・・ミレールの師は)ヘーゲル哲学の「否定」概念が、自己の同一性への総合を前提とした否定に過ぎず、この否定概念は、判断機能の最初の是認(Bejahung)を前提としているゆえに、その外部の「狂気」を捉えられないばかりか、無意識の次元における否定という働きも把握できないと論じた。(十川幸司2013)


 このようなヘーゲルの「否定」概念を、無理矢理こじつけて、精神分析の領域近辺へと引き上げたのが、ジジェクだ。

 そういう意味では、ジジェクはもともと精神分析的ではないし、そして精神分析とは違う「なにか」を継続している。





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ボロメオ


 ボロメオの環を三次元的に観察すると、一部はスッキリする。

 横から、三界が高さの違いをもって浮いているところを確認することが、精神分析を思考するのに有効だ。
 
 しかし、三界が鎖としていかに繋がるのかを考えれば、逆に混乱に陥る。

 なので、なかなか思考しにくい。

 いずれにせよ、ボロメオを地図を見るように、上から見ただけでは何もわからない。

 そういうわけで、オレはボロメオを思考に有効な道具として使えない。

 ある症例を説明するための、あるひとつの理論によって説明するための道具としては優秀だが、それはけっして普遍的なものではない、というのがその要因だと思う。





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発生論的ラディカリズム


 前述したファンダメンタリズムの手前に、父の名以前の象徴的なモノを想定することはできるので、それを発生論的ラディカリズムと呼んでみてもいいかもしれない。

 全体化しない段階の象徴的なモノをどう考えるべきかは、臨床というよりは理論の話だろう・・・というか臨床には「全体」を考慮する時空がない。






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発生論的ファンダメンタリズム


 クラインに倣って、もっと過去へと遡及すれば「正しい」と勘違いするのが「発生論的ファンダメンタリズム」(オレがたったいま勝手に作った)だと思う。

 原抑圧、固着を強調するのは、発生論的ファンダメンタリズムの引いた線上にある。

 このファンダメンタリズムの行き着く先が、たとえば「出産外傷」だ。

 いずれにせよ、それは事後的にしか思考できない、ビッグバン以前のものだ。

 つまり、おそらくは「推論上の理由で要請され完全と想定される諸形式」(S8、VII、1)に向けて「上辺を繕う」ために、採用されたものだろう。






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アレマニー [サッカー]


 2022-2023リーガを制覇したFCバルセロナのアレマニーが、一転残留となった。

 財政面でのゴタゴタが続いているので、彼の残留が一番心強い補強といえる。

 ジョルディとの関係なのか、デコとの関係なのか、アストン・ビラとの関係なのか定かではないが、バルサにとってはありがたい話だ。

 





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当たり前すぎて誰も言わない話(5)


 現代ではエディプスをあまり見つけられない。

 それでも、現代にヒステリー者は少なからず存在する。




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当たり前すぎて誰も言わない話(4)


 フラストレーションには、「欲求不満」だけではなく、「失敗」「挫折」の意味がある(元のドイツ語はVersagung)。

 S'.r:現実的な対象にかかわる(象徴的他者による)想像的な行為。



・以下は単なる構造主義的組み合わせ(廃棄されたもの)。

超自我  R.i   去勢
現実   S←S'.r フリュストラシオン
自我理想 I.s   剥奪

大文字=動作主(父等)、小文字=対象(ファルス等)、無=対象欠如(子等)




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当たり前すぎて誰も言わない話(3)


 父親への愛という構成要素を避けることはできない。






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当たり前すぎて誰も言わない話(2)


 去勢の脅しは外から得られない。

 それを想像するのは、いつも子供(斜線を引かれた主体)だ。





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当たり前すぎて誰も言わない話(1)


 父親がいなくても、エディプスは機能する。





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クライン


 結局クラインは誤っているんだが、間違っていることさえ度外視すれば正しい。

 それが精神分析の恐るべき正体だ。

 極論すれば、出産外傷(オットーランク『出生外傷』1924)など精神分析では思考不可能で、過去に遡りすぎた。

 遡るポイントは、ヘーゲルが上手に表現している。

 ただ、これを言い過ぎると、ジジェク主義者だと思われてしまうので、そのあたりは曖昧にしておこう。






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思想の断裂 続き


 断裂らしきものは確かにある。

 ミレールがそう言うのも理解できる。

 ところが、よく読んでいくと、・・・・つまり、書いてあることを素直に読んだあと、「それがうまくいかなかった場合、どう考えるのか」を思考するのが、精神分析の方向性だとすると、オレたちはそれを踏襲するべきなのか。

 例えば、いわゆる「前期」のセミネールを読んでいくときに得られるものの豊かさをどう考えるべきか。

 ミレールが捨てようとしたものは、彼の師が捨てようとしたわけではなく、ただの踏み台、あるいは前提だったとすると、どうだろう。

 いずれにせよ、精神分析は捨てられたものを漁る学問だ。

 たぶんミレールの意図は、「捨てるから漁りたまえ」ということだと思う。

 そして、それらは全面的に正しいわけではない。

 そういうことを含めて、重要だということをオレたちは理解しなければならない。

 ああメンドクサイ。





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思想の断裂


 思想の断裂は、その目的や効果さえ踏まえていれば、断裂前後の共有は可能だ。

 というか、トライとして、そうするべきだ。





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古い革袋


 構造主義的影響の強い時期のモデルを使うことは、よくないという説もあるが、新しい革袋が適切かどうかよくわからないところもある。

 早急に結論を出さず、いろいろと比較検討するのが学問の姿という気もする。

 できるだけ、複眼で見るようにしたい。





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エディプスの使い道


 エディプスは、「父の名」が機能しないときにどうなっているのかを考える手掛かりになる。

 それをファルス的享楽と呼んでもいいんだが、その前に考えなければならないことがあるからだ。 

 「父の名」の機能しない象徴界とは何か、それを考えると夜も眠れなくなるほど楽しい。





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ジジェクの読み方


 まずは気分でぶっ飛ばして読む。

 あとは、いろんな思想家のフォローを考える。

 複線的に読むといろいろ見えてくる。






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本屋のイメージ


 オレは池袋にあった芳林堂、新宿の紀伊国屋本店が好きな本屋だった。

 担当のこだわりによる、「棚の個性」が許された時代だったから。

 今は本が売れなくなり、posシステムによって、担当の個性は失われた。

 ならばジュンク堂池袋本店のような品揃えが、現代的な理想なのかもしれない。

 その意味では新宿西口のブックファーストも現代的だろう。

 ・・・。

 なんとなく、神田の古本屋を巡ろうか、という気分になる。





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症候


 『汝の症候を楽しめ』を読んだり荒谷大輔を読んだり初期セミネールを読んだりといろいろ忙しい。

 「ジジェクがことさら大袈裟に書く理由は、想定する読者の知的水準が低いからではないか」という、明らかに誤った仮説を立ててみた。

 ミレールの師がスキャンダラスな言説を選択するのと似たような意味があるのかもしれない、とすら感じた。

 いずれにせよ、隠されたり否定されたり捨てられたりしたものを、オレたちは掘り出し続けなければならない。

 精神分析とは墓を掘り返すことだ。

 それは精神分析自身についても適用される。

 そうでなければ『心理学草案』など誰が読むものか。

 マルクスの『経哲草稿』やヘーゲルの『イェーナ体系構想』なども、おなじように掘り返されたものだ。






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ミレール=弱い父の名


 ミレールによって(無意識的に)葬られた50年代思想を、いかに現代風に解釈するか、それがオレのいまのテーマだ。






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精神分析は漸近的ではない


 精神分析は漸近的に「正しさ」に向かっていない。

 そして、どの時代のフロイトでもオモシロイ。

 敢えて言うなら晩年のフロイトはオモシロくない。

 いやもちろんオモシロいところもあるんだが、それ以前に比べればオモシロくない。

 なんというか、どの時代のフロイトにも有効性がある・・・という読み方をすれば、どの時代でも楽しく読める。

 どんな思想家でも理論の変遷はあるわけで、そのうち、どの時代の理論が正しいのかは誰にもわからない。

 時代に合っているかいないかについて、ある程度考慮しなければならないが、その適応状態は「漸近的に正しさに向かっている」のではない。

 そもそも「時代や環境に、うまく適応する」という言葉自体が精神分析では難しい、という事情がある。






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ヴィンテージ


 ヴィンテージに価値があるのは、古きをたずねて新しきを知る、ということにある。

 もちろん新しい葡萄酒を古い革袋に入れてもムダなんだが、古いからすべてがダメというわけではない。

 ヘーゲルやカントがオモシロいのは、彼らがオモシロいからに決まっているんだが、そのオモシロさは、ある程度現代流に読み替える必要はあるかもしれない。

 精神分析は、古色蒼然とした斜陽の学問ということさえわかっていれば、普通の感覚で読むのとはまた別だろう。

 だいたい、いまだにフロイトの書いた症例が議論されていること自体、普通ではない。

 とはいえ、フロイトのテキストは、慣れてしまえば抜群にオモシロイ。






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つまみ食い


 読書はつまみ食いだ。

 特に思想書関係は全部読むとアホになる。

 順序よく読むと効率が悪い。

 ただしダラダラ読むときは順番に読む。





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笑い飯


 2002年M-1のころから笑い飯のファンだが、一時期ダウンタウンの継承者とまでいわれた彼らのテレビの露出が少ない理由がよくわからなかった。

 その理由は前述の「笑い神」(中村計)を読めばなんとなくみえてくるんだが、それはそれとして21周年のDVDをみていると改めて彼らのすごさを体感できる。

 オモシロいことを追及する場所は、テレビのゴールデンタイムだけではなく、むしろそれは制約のない舞台がふさわしい・・・のかどうかは神のみぞ知る。





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丁半


 ポー「盗まれた手紙」で、丁半の得意な少年の話がでてくるが、あれをミレールの師は、「+」と「-」で表現している。

 それはなぜかを真剣に考えたことがあるだろうか。

 それを真剣に考えた者だけが精神分析の仕組みを理解できる、といえば、もちろんそれはおおげさだが。





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ファルス


 ファルスとは、あるいはシニフィアンとは、敢えていうならディックの「ルーグ」のようなものだ。

 それが「父の名」となるのは、たまたまその時代がそうだったからにすぎない。





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