アガトン
オレたちは、アガトンとともに生きる、それがいちばん楽しい生き方だ。
ドラマゴッズの「メガトン」を聴きながら、そんなことを考える。
アンティゴネー
アンティゴネーの物語は、極論すれば彼女自身が「アーテー」と一体化することを示している。
アンティゴネーが二つの死の間にいるとしても、それは個人の死の問題ではなく、家族の崩壊の悲哀、恐怖、そして狂気の問題であり、そして、彼女はそれを決して忘れまいとする。
悲劇はつねにアーテーとともにある。
MBTI
オレはINFP、らしい、あまり意味が解っていないけど。
根拠がないのは血液型や星座占いと一緒だが、一応テストの結果なので、運命論的な要素は少ないともいえる。
主体性が大切
要するに、カントを自ら読むという姿勢が、自らの不十分さを認識することになる。
それは周りが教えることではなく、個人が受動的に教えられることでもなく、自分自身の必要性に応じて、主体的に学ばなければいけないことだ。
カントのコペルニクス的転回に対するあれこれ その2
もう一つカントの「コペルニクス的転回」について言わなくてはならないのは、客観的な対象を否定しているのではないということだ。
そうではなく、「認識論的な先天的な対象意識」と「客観的な後天的な対象意識」は混然と(含蓄的絡み合いとして)同居している。
これは、カントを素直に読めばそうなるはずなんだが、どうもそうなっていないのは、教科書自体に問題があるのか、あるいは教え方に不具合があるのか、あるいは受験問題の書き方が不十分なのか・・・。
とはいえ、しつこいようだが、オレ自身はあまり気にしていない。
それは教育する側の問題ではなく、学習する個人が気づかなければならないことだからだ。
カントのコペルニクス的転回に対するあれこれ その1
前回紹介した山川の『倫理用語集』は、高校生の授業理解と大学受験合格のための知識獲得を前提とし、現存する「倫理」の教科書を調査したうえで書かれたもので、その目的は十分に果たされている、とオレは思う。
とはいえ、そのまま大学生などの思想を学ぶ人びとに、そのまま広まっていくとすれば、若干不十分だともいえる。
「不十分だ」という原因はカント自身の言説にある。
カントの書いたことを、前提なく純粋に受けとめれば、それは「公転」ではなく「自転」の話だろう、と誰しもが思うはずだ。
にもかかわらず、コペルニクスの歴史的功績は「公転」にあるので、ついついそれに関係づけてしまう。
「コペルニクス的転回」の教科書的な定義 [メモ]
メモ、山川出版社『倫理用語集』(2014年版)P210より。
コペルニクス的転回
対象が意識を規定するのではなく、意識が対象を規定するというカントの哲学の変革を、コペルニクスの地動説による天文学の大転換にたとえたもの。カントはこれを、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」と表現し、認識する主観が外界に実在する対象(客観)に一致するという伝統的な立場を逆転し、対象が主観の認識の枠組みに一致するように構成されていると説いた。人間の外に実在する対象を認識するという常識的な考え方が反転され、対象は人間の感性が受け取った感覚的な印象に悟性の思考の枠組みを当てはめることによって構成される。このように考えることによって、例えば、原因と結果の因果性は経験から後天的にみつけられたものではなく、悟性が対象に与えた先天的(アプリオリ)な思考の枠組みとして、経験に先立つ先天的な客観的普遍性をもつことになる。
(引用ここまで)
・・・次回はこれに対するささやかな文句など。
コペルニクスとカント
前にも書いたが、カントの「コペルニクス的転回」とは、「『地球は世界の中心にある』から『地球は太陽の周りを回っている』への発想のシフト」(天動説→地動説)ということではない。
オレは大雑把な人間なので、そのあたりはどうでもいいと思っているんだが、まれに、その不十分さに気づいてしまう。
なぜ「不十分だ」と言いたくなるかというと、安易な説明が横行しているからで、もしかすると教科書にそう書いてあるのではないか、と心配してしまうくらいだ。
次回、それを見てみよう。
残骸としての倫理
症例ジェラールには、精神分析の倫理の残骸が垣間見られる。
そういう意味では一貫している、と言うことも可能だ。
シーニュとシニフィアン
シーニュ(記号、しるし)は存在論的次元にかかわるが、シニフィアンはまったくかかわらない。
つまりシーニュは、視覚効果としては想像的次元とも言えるし、(厳密には違うが)存在的には現実界的次元とも言える。
どうでもいいことだが、シニフィアンは外傷とも関わっている――それはきっと「テュケー」と言い出した頃からだ。
老人性ファシズム
老人の何人かは、考えるのがメンドクサイのか、短気に結論を出したがる。
短気な結論のみならず、極端な結論へと向かいたがる。
そして、違う意見の持ち主に対しててバカだと言い出す。
オレも老人だから、そう言いたい気持ちはわからないでもない。
しかし、なにを焦っているのか。
短気が有効なのは、短時間セッションに対して言い訳するときだけだ。
トポロジー
シェーマや論理記号、トポロジー(欲望のグラフなど)、ボロメオの結び目などは、なにかを語るために便利なものだが、そこから何かが生まれるわけではなく、結果として選ばれたものだ。
そして、それらは神話と同等なものだ。
あるいは、それらはある意味(留保付きだが)、構造の一種だ。
なにかを語る時には便利だが、別のなにかを語るには不便な時があるということを理解しておく必要がある。
つい、どの神話が重要かを考えてしまうが、それよりも、自分がどう変容するかが大切だ。
理論は必要か
オレは理論をあまり重視していない。
もちろん理論は必要だし、思考の手掛かりや枠として役に立つ。
しかし、実際にはテキストを読んで、目からウロコが落ちて、ビックリするだけのことだ。
それを、リアルに関する構造だと感じることが多い。
客観的に理論を述べようとするから、ウソくさくなるような気がする。
その考え方が正しいとすると、大学における学問が、ある意味で不毛だと思うのは仕方がないかもしれない。
そう考える原因は、きっと、理論そのものではなく、理論に対するオレたちの態度そのものに、ある。
構造主義の彼岸
「構造の無さ」が象徴界からの離脱を意味するのかというと、それはまったくのナンセンスだ。
「構造の無さ」こそが最大最強の構造だからだ。
ただ、直感的にとらえにくいという欠点がある。
しかも、構造がまったく無いわけではない。
その残骸が狂気への道を閉ざそうとしている。
狂気
狂気は、「構造の無さ」の表現のひとつにすぎない。
それが重いのか、軽いのかは、現実対応力の差だ。
仮に、論理的一貫性が一種の狂気(強迫神経症)だとしたら、オレたちは何を(本当の)正常と考えるべきか。
ローラ
ロル・Vの物語は、現代的な倫理の問題を含んでいる。
正直に言えば、オレたちはいまだに、エローメノスについて、一般化できるような構造を見いだしていない。
なぜか。
構造がないからだ。
そういうわけでロル・Vの物語は難解だと思われている。
デュラスの筆によりはじめて、オレたちは、なんとなくその本質をとらえそこないながらも、一部を把握できるようになった。
つまり、シーニュと同じ「構造の無さ」をそこに見いだせれば、現段階では今後に期待するというし意味で、まあまあかな、と思う。
デュラスの卓越した文学的センスによって、そこに構造ではなく、ある種のパターンを提示した、・・・それが重要だ。
日々不穏
筒井康隆『日々不穏』をひさしぶりに読む。
なにかを調べていたような気がするが、なにを調べていたのかすっかり忘れている、アホか。
といいながら、読むのに夢中で調べ物は後まわしになる。
この文体はクセになるから困る。
腹立半分日記
筒井康隆『腹立半分日記』をひさびさに読む。
調べ物をしているうちに、筒井作品に書いてあったような記憶があり、その確認のためだ。
といいながら、読むのに夢中で調べ物は後まわしになる。
この文体はクセになって困る。
セミネール4巻
いろいろあって、セミネールの4巻を読み直している。
読み直すだけの価値はある。
ある意味、ここから始まったと考えてもいいくらいだ。
至福から積読へ
転移のセミネールを最初から読み始めた。
ザックリと下巻(邦訳)しか読んでいなかった、という事実に気づいたから、という理由もある。
これまた、途中でやめて積読へと至るわけだが、これを至福の時間と感じるのが、オレの問題かもしれない。
無駄ではない
そういうわけで、晩期理論をダラダラと読むヒマがない。
もちろんそれが無駄と思っているわけではない。
読めばわかるさ
邦訳されたセミネールをダラダラ読んでいる。
ついでにジジェクやジュパンチッチ、コプチェクを読んだりしているのは、とても他人には言えないので、内緒だ。
読めばわかる
というわけで、クローデルの『人質』をとりあえず読み始める。
読めばわかる、いや、わからないなりに、腑に落ちる、いや、もはや理解はどうでもいい・・・オレがどう変容するのか、それがいちばん大切なことだ。
リベラル・アーツ
オレたちに必要なのは、リベラル・アーツだ。
というか、世間がそれを不要としているのなら、精神分析など、とっくの昔に、たぶん21世紀を迎えることなく、しかも瞬間的に、社会的に抹消されている。
主体性
精神分析の素晴らしいところは、(そのテキストの読者を含めて)関係する個人に、個人の経験として、すべて跳ね返ってくることだ。
逆にいうと、「これが正しい」読み方というものはない。
それらのテキストが、オレたち自身を主体化させる。
理論を議論するのではなく、テキストによる影響を受け止め、咀嚼し、血や肉としていくことがオモシロイ。
精神分析の理論を系統的に辿っていくのは、学びの姿としては、道をそれている感じがする。
それらの理論から派生するものを、つまりテキストそのものを自らのものとして受けとめて、自らを多形倒錯的に変形させていく過程こそが、オレたちの喜びではないのか。
神話
ミレールの師は、神話から離れ、後にトポロジーへと向かった。
神話はすべてではない・・・という理由からだと思われる。
もちろん、トポロジーやボロメオもすべてではない。
要するに、理論の変遷に加えて、その思考に利用する道具の変遷だ。
オレには、捨てられたようで捨てられていないものを、たとえば今ではほとんど顧みられないクローデルのようなものを、掘り起こす楽しみが残っている。
続・ジジェクはこう読め その4
まるでディックの主人公のような、うだつの上がらないマルクス主義者として読む。