象徴はまず、・・・
1953年といえば、前期の始まりだ。
だからローマ講演は、初期論文だ。
だからといって侮れない・・・というか、時代によって正しいとか正しくないとか判定するだけの根拠はどこにもない。
あとになればなるほど間違える人もいる・・・デビュー作の衝撃を超えられない小説家は掃いて捨てるほどいるだろう。
などという話はどうでもいいが、ローマ講演の白眉は「象徴はまず、物の殺害として現れる(E319)」という箇所だろう。
論文の最後の方なんだが、ここでの「死」の姿は、後の「享楽」ほど洗練されていない、ということを踏まえてもじつに楽しい。
オレたちの読書による快楽はこういうところにある。
時代区分 [メモ]
メモ。
ミレールによる時期区分。
前期:セミネール第 1 巻から第 10 巻まで、1953 年から 1963 年
中期:セミネール第 11 巻から第 21 巻まで、1964 年から 1974 年
後期:セミネール第 22 巻から第 27 巻まで、1974 年から 1980 年
前期:「同一化の臨床」、中期:「幻想の臨床」、後期:「サントームの臨床」
・・・これを断裂的歴史とみるか、継承的歴史とみるかは人による。
思想の変化
思想は変化するだけで進化はしない。
だから新しいものがすべて正しいとはかぎらない。
だから変化の中でおいしいところをつまみ食いする。
引き算
ポスト構造主義は「積分にたいする微分」で説明可能(例えば浅田彰)だが、精神分析は「引き算」(例えば、愛から快楽を引く)で思考する。
重要なのは、その引きかたは、単に減らすのではなくマイナスを足すということだ・・・精神分析の遠戚にあたるヘーゲル的弁証法は、現実と象徴がうまくいかない(噛みあわない)ことを、幻想(想像)にたよらずに、そのまま足してつぎに進むことだ。
けっして虚数で思考するわけではない。
あれかこれか
なぜキルケゴールは「あれかこれか」という考えに至ったのか。
それは、レギーネの本質が「あれもこれも」(「宮廷恋愛」=「プラトニック&性的快楽」)だということに気づき、それをキルケゴール自身にあてはめたときに、「あれ」(彼の場合は「ファルス享楽=宮廷恋愛」=普遍)以外の「これ」(神の愛=例外)を発掘したからだ。
反復
キルケゴール『反復』を読んでいる。
なぜこんなものを読まなければならないのか、という疑念をもちつつも、グダグダと読む。
饒舌のなかに真意をかくす、という方法論が、シャーロック・ホームズの物語を連想させるとしたら、ついでに(精神分析方面ではおなじみの)「盗まれた手紙」が脳裏にうかぶこともあるだろう。
しかし、オレたちは名探偵ではない。
連想はつねに(被害者側の)主体がおこなうもので、第三者(の名探偵or語り部のワトソン)がとやかくかたることではない。
できるのは、構造的傾向性を発見することだけだ。
通常は見えない「定冠詞のついた女性」をどうやって見いだすのかというと、ファルス享楽をあきらめることにある。
それは、まさに(ミレールに)捨てられた欲求不満の構図だ。
だからミレールは(ときどき、意図的に)誤っている。
ミレール
ミレールは50年代のロジックが好きではないようだ。
その理由は、デリダなどの論客が、ずっと初期ロジックの批判をしていたからだろう。
その批判対象が「もう古い」と言いたいのだろうが、さてどうだろう。
ファルスの意味作用
ときどき読むべきなのは、例えば「ファルスの意味作用」や「ローマ講演」になるかとおもうが、その理由は、欲望自体がまたある種の失敗(疎外)によって成りたっていることと、のちに欲望にかんする初期のロジックが「父の名」の挫折(弱体化)によって、やはりある種の失敗(トーンダウン)しているという構図がたのしいからだ。
エクリ
50年代といえば、ほぼ「エクリ」だから、結局それをあれこれ読まなければならない。
こういうムダなことをするのはむかしから学者だと決まっているんだが、ヒマなサラリーマンにも可能だというところがおそろしい。
妄想分裂ポジション
しつこく、50年代の話。
妄想分裂ポジションがかんがえられたのは「夢を見ていた」からだ、と言ったとか言わないとか。
ようするに、安易に原初へ遡ることを好まない、というのが精神分析の欲望のひとつだ。
それは事後性の効果による錯覚と考えてもよいだろう。
普通精神病のありかたは、欲望の弁証法の失敗によってなりたっている、というのはきわめて個人的な仮説だが、正しいとか誤っているとかはどうでもよく、ただたんにあまり遡りたくないという路線にのってみただけのことだ。
笑い神
中村計『笑い神 M-1、その純情と狂気』(文芸春秋)読了。
ここに書かれている狂気について、芸人は表にみせたがらないような気がするが、結局笑いは狂気と紙一重で、だからこそ、オレたちはその狂気に触発されて、笑うことができる。
ウケるならば、全裸になるのが手っとりばやいという発想は、じつに芸人らしい。
しかし、それは訓練時代の精神的なモノで、結局はネタをどうやってひねりだし、どうやってそれを表現し、客を笑わせるか、という技術的なことにつきる。
また、究極の発想として「客をみるか、自分をみるか」という二択があり、笑いの神にちかづくには「自分をみる」ということになるんだが、そうすると、当初はウケない。
しかし、それを乗りこえてウケたら、ひじょうにつよい笑いとなる。
その二択のバランスの中で、おおくの芸人は生きていく手段をみいだそうとする。
その構図そのものさえも狂気的といえる。
M-1は「競争」という基準をつくった。
たぶん、いつまでもM-1で上のほうにいけないコンビは、べつの道をさがしたほうがいい、という意志もあるようだ。
そうかんがえると芸人の世界はきびしい。
というか、お笑いの世界は勝負の世界とおなじだ。
思考回路
思考を「縦横」だけで、「上下」を無視し、二次元にとどまらせていると、いきづまり、あるいは、ときにはその「いきづまり」がある種の「完成」と勘違いした気分になる・・・この「ある種の完成=わかった気分」を目の当たりにすることがあるし、自分で経験することもある。
わからないのは「マヌケ」だが、わかった気分は「みっともない」だ。
複数の回路を同時にもっておくことは、じつにたいせつだ。
50年代の特殊性
どうでもいいことだが、たとえば、「性関係はない」の説明は50年代の理論をふつうに読んでいれば可能だ。
50年代の重要性
なぜか、オレは50年代の重要性を強調せざるをえないという、微妙なところに立たされている。
それは、学校で悪さをして、廊下に立たされているのとおなじようなものだ。
漫画における対象欠如について
わるい父親(略奪する父)は、そのまま「現実的父親」による去勢として機能するが、おおくの漫画(想定は週刊少年ジャンプ)では、父親はいいひと(主人公の協力者)だ。
わるい父親は、おおむね「敵」としてあらわれる。
・・・いずれにせよ現代的ではない。
しかし、少なからぬ説得力があるのはなぜか。
ただの昔の名残か、文化的風習か、それとも有効な神話か。
人はみな不毛
したがって「ひとはみな妄想しない」となる。
ただし「妄想する」と「妄想しない」の現実的ちがいはない。
普通精神病の由来
当てにならない仮説のはなし。
普通精神病がどこからでてきたのかしらないが、たぶんそれは「対象欠如の三形態」(S4)から、去勢と剥奪がぬけた「対象欠如の一形態」という現代的特性に由来するものだと漠然とかんがえている。
「想像的ファルスの欠如(-φ)」の欠如が中途半端なため、というか前提にある父の名の機能がよわいため、多数のちいさな物語(ゲーム世界、陰謀論、いろいろな思考形態等々)へと逃走し、それを利用して社会とつながろうとする。
しかし、結果としてうまくいかない場合、社会的紐帯からの離脱となる。
つまり、そうなるともう、精神病と神経症をわける鑑別診断の必要性もなくなるのではないか。
欠如が欠如する
去勢において「持っていないものをうしなう」という認識があったが、S10では「欠如の欠如」という考えかたへと変更(一般化)される。
母がつねに現前しつづけると「想像的ファルスという欠如が欠如する」ということになり、子供時代の空想やのちの欲望の展開に問題(不安)が生じる原因となる。
これはシニフィアンの欠如としてのシニフィアンを考える際の、第二の手がかりだ。
一応書いておくと、他者の欠如と想像的ファルスの欠如を重ねあわせることで「分離」が達成されるんだが、くわしくはいろいろな本に書いてあるはず。
またこの考えかたの基本は「ファンタスム」にある。
女性はなにも欠いていない [メモ]
メモ。
欲望の対象の機能の鍵をなしているものの参照において、一目瞭然なのは、女性はなにも欠いていないということです。「ペニス羨望」が最終的な項だと考えるとしたらそれはまったくのまちがいです。
(S10 1963年3月13日)
これは、ある一面から見ると、去勢や剥奪の機能が弱体化した時代を反映しているわけだが、フリュストラシオンがボロ布になったことを示してはいない・・・なによりも療法のひとつの指針となっている。
のちに「(定冠詞のついた)女はいません」(S20、1973年2月20日)などと宣うような人物の、「女性」に関する理論的変遷を記すのはアレだが。
・・・ちなみに「定冠詞のついた女」を語ったのはシュレーバーだ。
もう一つのエディプス [メモ]
メモ。
われわれは女児におけるエディプス・コンプレクスの前史に対する洞察を手に入れた。男児の場合のこれに対応するものはまだあまりよく知られていない。女児の場合はエディプス・コンプレクスは二次的な形成物だ。去勢コンプレクスの影響がこれに先行してその準備をする。エディプス・コンプレクスと去勢コンプレクスの関係については、両性のあいだに根本的な対立が生じてくる。男児のエディプス・コンプレクスは去勢コンプレクスにゆき当たって滅びていくのだが、女性のそれは去勢コンプレクスによって可能とされ、また惹起される。
(フロイト「解剖学的な性差」)
・・・この性差の時系列に関する文章は、後述する理由によってあまり表にでなくなった。
手形の回収~古き精神分析的ココロを懐かしむ [メモ]
(1)借りたおかねをいつか返さなければならないという認識(おそれ)
(2)てもとに現金がないのに、あると信じ振りだしてしまった手形を回収されるという認識(おそれ)
以下は断片的説明と浅薄な感想などを列記する。
・これらは去勢についての認識。
・(1)の「借りたおかね」の話はねずみ男を連想させるが、あまり関係ない。
・ここでのおかね(現金)はファルスを意味する。
・(2)は「持っていないものをうしなう」・・・の説明となっている。
・シニフィアンは欠如しても、あるべき場所がきまっているので、欠如していることを認識できる
→ シニフィアンによって「持っていないものをうしなう」ことが可能になる。
・「欠如」そのものが、「シニフィアンの欠如としてのシニフィアン」として定義可能となっている。
・精神分析を学習するさいには、「負債についての、あるいはうしなわれた手形についてのセミネール」が必修科目か。
・母・子・ファルスの想像的三角形において、母の二重化、子の二重化がおこる
→ 「二重化と同一化の運動」=欲望の弁証法(古き精神分析的ココロ)。
・(1)(2)ともに、将来の「正常」へとみちびく、幼児の一時的な「不安神経症」といえる。
・フロイトの症例をよめばわかるが、正常へはいたらず、失敗することがおおい
→ これがしめしているのは失敗の普遍化の可能性
→ 「正常は存在しない」という可能性
フリュストラシオン 続き
具体的には、オレたちは、Versagung についてかんがえなければならない。
これは結構メンドクサイ、テーマだ。
フリュストラシオン
とりあえず、路頭にまよったときは、フリュストラシオン(の二重化)をめざすことだ。
オレの読書経験は未購読と積読と誤読と古本屋おくりにより日常的に停滞しているわけで、その停滞からぬける方向をさぐるために、目印が必要だという意味もある。
オレたちは断片的な要求にしたがってはならず、したがうのは、二重化されたフリュストラシオンによってみえかくれする(去勢にかんする)シニフィアンによってみちびかれる欲望だ。
欲動の対象
満足、欲動の対象は、たとえばカントにおける、存在を規定する概念のカテゴリーにとってかわる。
それはフロイト(快感原則の彼岸)からみちびかれている。
存在を保証するもの
存在を保証するには、なんらかの論理的定式が必要だとかんがえてしまうのは、誤りだ、という場所にオレはたっている。
つまり、存在を保証するものなどない。
そして、だからこそどんなにあつめられても、それらは全体を形成できない。
存在とすべて
存在をかんがえるにあたって、「すべて」をしめすのはむずかしい。
つまりトラウマ的だ。
なぜならば、人間観察の結果、すべてをかんがえようとすると、つぎの二つがみちびかれるからだ。
(1)「すべて」には(外部に)例外がある
(2)「すべて」には(内部に)欠落がある
これが「ウルトラマンA」は存在しない・・・とオレが力説する(してないが)理由となる。
ローマ講演
ローマ講演をダラダラとながめる。
これもまた積読予定なんだが、ながめはじめるといろいろと気になる。
(部分的にはのちに捨てられてしまう)初期集大成的な内容で、難解だとしてもいろいろと手がかりがあるので読めなくもない。
とりあえず、オレの興味がありそうな箇所をザっとチェックし、あとで読みこむべきところを確認しておく。
それをするだけでもう読みおわった気になるのがオレのアホなところだが、もちろんそれでやっと、読書のとっかかりができたていどだ。
先はながい・・・だから積読だ。
オレたちの大好きなスキゾフレニー
スキゾフレニーをどう解釈するかによって、50年代、60年代、70年代とザックリ区別され、さらにはそこにドゥルーズ=ガタリ(器官なき身体)への応答や、ミレール派の解釈がつけくわえられる。
そういう時間軸別の変遷をふまえることは理解にやくだつが、理論の路頭にまよう原因にもなる(たぶん分析家は目先の症例にふりまわされているので路頭にまようヒマはない)。
オレがいま(70年代を横目でながめつつ)50年代に回帰しているのは、構造主義の見かたをすこしかえて、あらたな視点を手にいれようというムダな努力によるものだが、それにくわえて、いわゆるミレール派がややツマラナイ・モードに突入しているのではないか、という不適切な理由もある。
象徴化の二段階論は21世紀に有効かどうかはべつとして、1950年代の気分をうまく反映しているのではないかとかんじている。
つまり、「ひとはみな妄想する」の立場とは疎遠になるわけで、そのかわりに、ハゲ、言いかえると不毛のロジックと親密になる。
さらにいうならば「ひとはみな不毛になる」の立場をめざすことになる。
いつまでたっても
いつまでたってもフロイトの症例を読み続けるという精神分析の宿命が、良いのか悪いのかよくわからない。