ヴィトゲンシュタインと言語
ヴィトゲンシュタインにとって言語は、まさに今、ここにある言語活動から出発する。
なので、翻訳可能性だとか習得可能だとか概念枠なんてものは、単に現状観察の一部にすぎない。
翻訳などしたくない、という人が多ければ、翻訳可能性の意味はあまりない。
仮にそういう人が少なければ、そう使用されない・・・つまり、意味がない場合が多いからだ。
未知の言語と接触して習得しようという人がどれだけいるのか。
そもそも概念枠は言語の成り立ちとあまり関係がない。
・・・等々考えれば、哲学的に考えることはヴィトゲンシュタインと離れていく。
もちろん哲学的に考えることの意義は大きい。
そういう無駄な思考がオレたちを正しい道へと誘う。
まず、目の前にある言葉たちと向き合う。
そこからすべてが始まる。
ヴィトゲンシュタインとプロレス
つまり、ヴィトゲンシュタインはプロレスだ。
常識や現実を元にして、それを利用して展開していく。
抽象性をさほど重視しない。
まさにプロレスそのものだ。
人生は自己責任
なんのことはない。
人生は自己責任、という名のゲームなのかもしれない。
だからオモシロイ。
たった一度の自分の人生を賭けて生きていく。
だから楽しい。
人生はゲームだ
人生はゲームだ、と思っていた時がある。
だからゲームでは遊ばなくなった。
ゲーム無しで生きることが一番、退屈しのぎにはちょうど良いからだ。
ヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と言った。
森田芳光は「家族ゲーム」と言った。
大江健三郎は「同時代ゲーム」と言った。
生きることはゲームだ。
だから機械のゲームをしている暇がない。
根元的解釈
根元的解釈の問題点・・・というほどではないが、反論可能な論点を見つけた。
特にどうということのない話だが。
前田アンドレ
そういえば前田アンドレの試合について船木がしゃべっていたのを聴いた。
曰く「前田さんのベストバウト」。
あるいは「前田さんは試合中孤独だったんだなあ、と感じました」という船木節。
船木の発言の中で一番重要なのは、当時マッチメイクをしていたのは、坂口、藤波、ミスター高橋の3人だったということと、現場監督を星野勘太郎がやっていた、ということだ。
もう一つ、放送されなかったがテレビ中継用の試合として、一つの目玉だったということも重要だ。
試合中、「どうしたらいいのか」と憤る前田に対して、星野は知らん顔をしていたらしいし、マッチメイク側が表に出てこなかったということを考えれば、あり得る話は一つしかない。
アンドレ自身が「it's not my business」と言ったにもかかわらず、あとになってから「あれはオレが勝手に仕掛けた」と言ったことからも、それは導き出される。
もちろん、ワカマツは何も知らない。
真偽はともかく、つまらない試合なので、真相は藪の中、という結論で問題なし。
概念枠 その6
というわけで、野矢茂樹の『語りえぬものを語る』は極めて難解な書物だ。
見た目の読みやすさで、理解したと思うと、罠に落ちる。
難解だからこそ、慎重に、注意深く、いろいろと他で確認しながら、じっくりと読み進めなければ理解できない。
つーか、そもそも野矢が乗り越えようとしているデイヴィドソンの考え方が難しいのも、その要因か。
たとえばこの章では、クワイン、デイヴィドソン、野矢の三者の思想的差異を、うまく切り分けながら読み進めていかなければならない。
概念枠 その5
そのようなデイヴィドソンの結論を踏まえて、野矢茂樹は、相貌論へ移行する。
相貌論へ行き着く前にデイヴィドソンの「概念枠による分節化、組織化」の「組織化」について触れているが、ここでは詳細に触れず、簡単に書いておこう。
要するにデイヴィドソンは「組織化」というのは共通の概念枠に支えられているので、「翻訳不可能な言語」という発想はおかしい、という話をしていて、それに対し部分的に反論する形で、野矢は相貌論をもってきている。
概念枠 その4
ところで、「二つの言語が相互に翻訳不可能」とはどういうことか。
ナンセンスではないのか。
ある言語と思われるものが、言語か否かを判定するには、翻訳可能なものかそうではないのかによって決まる、とデイヴィドソンは考えている。
つまり翻訳可能なものが言語として認められる、というわけだ。
なので、「翻訳不可能な言語」というのは矛盾だ。
だから、「概念枠」は、(翻訳可能な)すべての言語で共通なものなので、「異なる概念枠」など存在しないのだから、敢えて「概念枠」という言葉を使う必要はない、とデイヴィドソンは結論する。
概念枠 その3
もし概念枠があるとすれば、それは言語によるものだ。
だから言語が同じであれば概念枠は同じで、言語が異なれば概念枠は違う。
したがって、相互に翻訳が可能ならばそれは実質的に同じ言語で、その概念枠は等しい。
もし、二つの言語が相互に翻訳不可能ならば、そしてそのときのみ、両者で概念枠は異なる。
概念枠 その1
以下は野矢茂樹「語りえぬものを語る」の第7章より。
多少理解しやすいように、ロジックの流れをアレンジしている。
なので、以下は、多少本文とは違うことを言っているようだが、大筋は一緒だと思う。
プロ修斗
そういえばときどき後楽園で試合をやっているらしいが客入りはどうなんでしょう。
最近は、ホールで総合格闘技の興行が打てるだけでも大したものだと思うようにしている。
行く気はしないし、テレビでやっていても、たぶん見ないけど。
プロレス
プロレスラーは基本的にみんなオモシロイというかメチャクチャなんだが、修斗の人たちも結構メチャクチャで、朝日昇が普通に見えてしまうところが実に楽しい。
対談
そういえば、某サイトでの川口健次と朝日昇の対談でも伏字になっているところがあったが、あれはSさんのことなんだろうな。
朝日昇
朝日昇のインタビューはとても面白い。
初代シューターはみんな頭がおかしい。
あと修斗が佐山を追放(?)したのは、SとNだと(イニシャルではなく)はっきり本に書いてあるんだが、まーそれはそれ。
SとWの変な話とか、修斗原理主義の知性のレベルとか、実に興味深い。
前提としての実存
構成主義から逃れられないとしても、科学的実在論(素朴実在論でもよいが)を「前提」として想定することは可能だ。
第三のドグマ
とは言いながらも、クワインは経験を理論検証の礎としていた。
いや、逆か。
理論的枠組みによって「経験」し、理論を修正可能な状態に保ち続ける。
「猫」という概念がなければ「猫」は存在しない。
しかし、もし仮に「猫」が存在しないとしても、思考上は「猫がいる」という概念の世界(例えば虚構の世界の出来事として)を認めることが可能だ。
この両立可能性こそがクワインの大胆なロジックだ。
そしてその可能性を検証するのが経験だと。
・・・だからこそデイヴィドソンはクワインを批判した。
ドグマ
クワインによると、第一のドグマは「意味に関わる真理と、事実に関わる真理は別だ」というものだ。
第二のドグマは「事実に関わる真理は、観察データと論理的手続きによってのみ基づいている」というものだ。
これは全体論から容易に反駁可能なんだが、そこから反駁したところであまり意味がない。
オレたちは、・・・「事実上は」・・・構成主義の世界から抜け出せないのだから。
某皆様の放送局
知り合いというほどでもないんだが、某皆様の放送局の某神戸放送局長だった方が某国際放送局長になったらしい。
確か某皆様の放送局の女性キャリア採用の一期生だったとか違うとか、記憶曖昧ですが。
あれから30年経つのか・・・。
オレはただのチンピラ学生でした。
そういえば愛宕上杉通から移転したらしいし。
よく会館の中で卓球したような。
つーか、あの頃の皆様は元気なんだろうか。
右とか左とかの昔と今
ウヨクもサヨクも目立つのは実に・・・という感じで情けない。
昔はアジとかウマくて、体力的にもすごいんだけど金はないって感じで、でも人間としての「厚さ」を感じる人が多かったような気がする。
昔からセコイのもいたけど。
要するに思想がどうこうという前に、人間力なんだと思う。
今は人間的に魅力のある人は、政治に走らない時代なのかも。
だから今の政治家は・・・・という感じで、これもまた情けない。
実在と人間
現存在による実在の考え方は、人間が「そこ」に積極的に関わろうとするところに、実在がある・・・というようなものだ。
つまりは構成主義的な発想だ。
といえばカント的だ。
ところが今流行りの実在論は、人間を無視しようとしている。
M・ガブリエルはメイヤスーほどラジカルではないような気もするが。