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コペルニクス的転回 その1


 そういえばメイヤスーがカントのコペルニクス的転回を「おかしい」と言っていたような気がする。

 つまり、コペルニクスが、それまで主流だった天動説に対して地動説を唱えたということは、「主体が中心」という考えから「主体が動いている」という思考革新のことをコペルニクス的転回というはずで、カントの「主体の認識が中心」という考え方はコペルニクスとは違う、むしろ逆(プトレマイオス的反動)だろうというわけだ。

 ごもっとも。

 しかし、カントが実際にどう書いたか知っているだろうか。

(「純粋理性批判」第二版序文 中山元訳 光文社古典新訳文庫P157)
 この状況はコペルニクスの最初の着想と似たところがある。コペルニクスは、すべての天体が観察者を中心として回転すると想定したのでは、天体の運動をうまく説明できないことに気づいた。そこで反対に観察者の方を回転させて、天体を静止させた方が、うまく説明できるのではないかと考えて、天体の運動をそのように説明しようとした。だから形而上学においても、対象の直観について、同じような説明を試みることができる。もしもわたしたちの直観が、対象の性質にしたがって規定されなければならないとしたら、私たちが対象について何かをアプリオリに知りうる理由はまったく理解できなくなる。ところが感覚能力の客体としての対象が、わたしたちの直観能力の性質にしたがって規定されなければならないと考えるならば、わたしたちが対象をアプリオリに知ることができる理由がよくわかる。
(引用終わり)

 つまり、コペルニクスが「天体の見かけの運動が(天体ではなく)観測者に由来している」と言っていることと、カントが「実在対象の見かけの性質が(対象ではなく)認識者の心に由来している」と言っている構図が、よく似ているよね、という話だ。

 アポステリオリなものだけではうまく説明できなくて、別の何かが必要だ、という話の流れでコペルニクスを引き合いに出したというわけ。

 言い換えると、コペルニクス的転回を「天動説→地動説」と考えただけでは、カントの意図を汲み取れない。


 それに加えて・・・。

 要するに「時間」「空間」というカテゴリーが主観的だという話から逆算すると、「主体の認識」には客観性が欠けていて、経験があって初めて客観的な要素が導入され、普遍的かつ必然的な「認識」が可能になる。

 オレが言いたいのは、「対象があるから認識が始まる」に対して「認識したから対象がある」というのがコペルニクス的転回ではない、ということだ。

 大陸的合理論とイギリス経験論を合体させたのがカントだ、という通常的理解は意外と生きていて、なんとなく悟性側が優勢かもしれないけど、悟性と感性が両方ともしっかり働かないと(ものすごーく単純に言うとこの両者の共同的な働きが「超越論的」というヤツ)、真理には近づけないってことだ。

 なので、「対象優先の実在論から認識優先の観念論へ」という単純な図式で「純粋理性批判」の頃のカントを捉えるのは誤解を招きそうだ。

 オレはそういう捉え方にあまり近づかないようにしている。






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