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「充溢への欲望」の否定 [メモ]


 メモ。

 一切の誤解を防ぐためにここで私の見解を明快にしておこう。私は、生き延びを目指した「善き」民主主義的欲望と、充溢を目指した「悪しき」全体主義的欲望とを対置することを企てているわけではない。そうではなく、政治的闘争やその他[の闘争]において、充溢への欲望が働いたためしなどないと論じている。絶対的充溢の状態には全体主義が起こりうる時間は存在しないのだから、全体主義に向かう欲望は絶対的充溢の欲望ではありえない。同じ理由によって、時間的有限性を肯定することは無条件的だ。なぜならひとは皆、例外なく時間的有限性によって拘束されているからだ。したがって、このうえなく全体主義的な政権でも、自らのヘゲモニー体が有限なことを肯定することを前提としている。もし自らの身体が有限なことを肯定しなかったとしたら、その政権は自らの有限な身体に何が起こっているかなど決して気にもかけないのだから、脅威を感じることも決してなく、認知された敵に圧制的な権力を行使することもないだろう。ここで私が強調しているのは、デモクラシーと全体主義の差異を否定することでも、両者のあいだで決定することの切迫でもない。私が強調しているのはただ、これらのことがらは、内在的に民主主義的な欲望と、内在的に全体主義的な欲望の対置を基礎にして据えられうるものではないということだ。そのような対立を主張し保つとしたら、デモクラシーと全体主義とのあいだの差異を脱政治化することになるだろう。政治的操作に責任を負わず、それゆえに政治的吟味の必要性を免れた、意思決定のための判断基準が存在することになってしまう。超過政治的な要点とは、あらゆる欲望は本質的に頽廃しうるもので、全体主義になることを免れえないということだ。

(無神論P394)





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