ラクラウの欲望の機能 続き [メモ]
メモ。
普遍性の表象を想定する身体は主権的な身体ではない。それは必然的に部分的なもので、かつ脅かされている。というのもこの身体は排除を前提としており、永久に確保されるということが決してなく、転覆されうるものだからだ。しかし、ラクラウにとってヘゲモニー体は彼が「ラディカルな備給」と呼ぶものに支えられており、この備給は「その身体を完全に超越する充溢を具現化したもの」へと当の体を変容するものだ。ラディカルな備給は偶発的かつ個別の身体における絶対的な充溢への欲望の備給だ。ヘゲモニー体は有限にもかかわらずわれわれがそれを支持するのは、この身体が無限の充溢を社会へ戻してくれるとわれわれが信じるからだ。実際、充溢が不在なことが経験一般を構成するとラクラウは主張する。「有限性は根本的に欠けているものとしての充溢の経験、崇高の経験に関わる[……]それゆえ個人の生は、そこから彼ないし彼女が派生するような充溢を求めるものの無駄に終わる探求となるだろう」。
(無神論P375)
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