存在欠如
マンカエートルを「存在欠如」と訳すケースが多いようだ。
まるで、欠如が存在するかのように。
これは無限判断的な翻訳だが、原文のニュアンスはそれとはやや違うと勝手に判断している。
岩波での翻訳は「存在し損ね」としている。
この表現は、(斜線を引かれた)主体が、本来あるべき座にいない(斜線を引かれている)にもかかわらず、その座で語ることによって、その主体としての効果を発揮するという、きわめて説明しがたい現象について、語ろうとしている。
なので、「存在欠如」だと、その幽霊的な原文の効果をなかなか反映できていないような気がする。
オレの感覚では、欠如は存在しない、なぜならば、存在しないのが欠如だから。
欠如しているにもかかわらず、その効果があるのは、それは欠如ではなく幽霊だからではないか。
というわけで、結果的に「ガイスト」概念の擁護をしてしまった。