哲学
科学とか実証主義とか自然主義とか、そういうものを含めたのが哲学だ。
「シュートを超えたものがプロレス」と発言したG馬場のように考えてみよう。
J2のサッカー [サッカー]
J2のサッカーは運動量を武器に戦っているイメージがある。
で、日本代表が世界と戦うためには、このJ2のサッカーを追加してはどうか、というのが、オレの最近の見方だ。
ワールドカップの時のように原口と乾があれだけ走り回っては、彼らのシュートの精度など期待できない。
にもかかわらず、驚異的な運動量の長友を含み、走り回るサッカーによって世界と戦えそうな予感を感じさせてくれた。
パスの精度や前線からのプレス守備において日本らしさを維持しつつ、運動量で身体能力不足と技術力不足、および攻守の切り替えの遅さを補うというのは、自然な流れだ。
ウナギといえば金子達仁 [サッカー]
ウナギといえば金子達仁。
ロシュトーのドリブルを観るたびに「ウナギー!」と叫ぶのは愛嬌です。
オレは金子氏をさほど評価していないが、嫌悪感はない。
彼は、昔からたくさんの海外サッカーの試合を観ていることは確かだし。
で、その解説レベルはもちろん低くないんだが、論調はあまり好きではない。
彼の書き方は結構偏向しているため。
しかしながら、そんなことはどうでもよくて、クラッキーと達ちゃんが、まるでサッカーファンがお茶の間でテレビ観戦しているような言葉のやり取りをするのが好きだった。
そういう目で見れば、金子氏が多少偏向していようと、それはサッカーファンにはありがちな「好き嫌い」だと思えば普通のことだ。
そんな素敵な達ちゃんを勝手に「サッカー評論家」や「解説者」だと思うのは筋違い。
彼はただのサッカー好きです。
ウナギ教
夏といえばウナギ。
だから82年と86年のW杯サッカーのフランス代表の試合を見よう。
ウナギがいるから。
その別の名を、ドミニク・ロシュトー。
いい選手でした。
シャワー教
あと、夏はシャワーが無いと生きていけない。
だからシャワー教だ。
きっと清々しい人生を送れますよ。
エアコン教
つまり、エアコンがなくては生きていけない。
宗教みたいなもんだ。
あなたもエアコン教に入りませんか。
きっと幸せになりますよ。
アクセス数
ここのアクセスが増えたような気がするが、あまり気にしない。
増えるときは増えるし、減るときは減る。
ランダムウォークだ。
うつ病九段
先崎学『うつ病九段--プロ棋士が将棋を失くした一年間』(文藝春秋社)読了。
「一年間」というのは正確ではないような気がするが、半年よりは長いので問題なし。
難しい思想書をじっくりと読んでいる最中だったが、スラスラと二度繰り返して読んだ。
うつ病はこころの病気ではなく脳の病気だ・・という主張がある。
あとは、うつ病は必ず治る・・・という見解が書かれている。
この主張のもとは著者の兄(精神科医)ということなんだが、現役の精神科医の発言だから説得力はある。
文章自体は著者独特の主観と客観のほどよいバランスで書かれた「人情話」で、非常にオモシロい。
オレたちは病気になるる
それは脳も同じだ。
だが、うつ病は内面的な病気なのでなかなか他人に理解されにくい。
なので、うつ病の様子とその回復経験が書かれた本は貴重だと思う。
しかも書いたのが、将棋のプロ棋士の心の襞(ひだ)を書かせたら世界一の先崎学だ。
オモシロくないわけがない。
※註 「世界一」という言葉は、将棋の棋士の大部分が日本人によって構成されている、という事実から導かれている。
現実逃避
現実が楽しいのなら、現実逃避をする必要がない、という意見がある。
しかしながら、現実よりも空想が楽しいならば、現実からしばし離れるという選択肢も不自然なではない。
人は時に形而上的な思考に身を委ねる。
それは高い抽象性を伴うような概念を志向しているときなどに、そういう現象が起こる。
あるいは、認識や概念の取扱いについて、様々な可能性を考慮することが、楽しいときもあるだろう。
要するに、現実逃避は悪いことばかりではない。
どこに逃避するのか、ということを問わなければならない。
異動の夢
オレが異動になった夢を見た。
夢を見たのはオレではなく妻だが。
「遠くていやだなー」とオレが言ったらしい。
確かに言いそうだ。
ヘーゲルの館へようこそ
ピッツバーグ学派の哲学者たちがヘーゲルを言い出してからか、ヘーゲル研究は英語圏で盛んになっていてるらしい。
現在、本家のドイツではそのあたりに触れているのはガブリエル近辺だけか。
で、ガブリエル近辺はピッツバーグ学派のヘーゲル論について「デフレ化されたヘーゲル」と悪口を言っている。
確かにもともと「所与の神話」などドイツ観念論とはほとんど無縁で、一部カントの認識論が絡むくらいの話だ。
とはいえ、それはそれ。
ヘーゲルの話題になるならドンドン盛上げちゃってください的な余裕を持ってほしかった。
・・・というわけで、ヘーゲルの館へようこそ。
入館料はいくらでも勉強しまっせ、旦那。
夢で暗算
そういえば、夢の中で2桁の掛け算をしていた。
暗算とはいえ、紙に書きながら・・・という夢だった。
誰か解釈してください。
科学中心主義
『なぜ世界は存在しないのか』の中で、ガブリエルが科学中心主義の考え方としてセラーズの考え方を紹介しているが、よくよく考えてみるとガブリエルとセラーズの発想はよく似ている。
つまり、そもそも「○○中心主義」ということに反対するのが「科学」という思想体系だ。
科学の最大の特徴は反証可能性、つまりどんなときでも自らの主張は仮説に過ぎず、それを訂正していく余地があり続ける、という考え方だ。
「科学中心主義」という言葉は、「科学」に重きを置くか「中心主義」に重きを置くかによってイメージが変わってくる。
「反証可能性中心主義」と言い換えてもよいが、反証可能性という考え方ですら訂正していく余地を残すというのが、本来の反証可能性だ。
・・・ということを考え始めたら、夜も・・・いや、よく眠れます。
分析哲学的思考
ときどき分析哲学系の思考に陥る。
しかも突然、勝手に、何の前触れもなく。
メンドクサイから避けているにもかかわらず・・・だ。
だいたい思想的立場の細かい差異などどうでもいいから、フランス系に逃げていた(ある意味逃走論)というのに。
知識とJTB
知識とは、「正当化」された「真」なる「信念」(Justified True Belief)・・・とするJTB定式は、プラトン以来の伝統的定義だ。
感覚の純粋性
前回書いた「経験における感覚の純粋性」ほど、違和感のある言葉はない。
・・・自分で適切と判断して選ん言葉だけど、やっぱり変だ。
きっと、デリダに毒されているからだろう。
整合説=斉合説 [メモ]
メモ。
デイヴィドソンが一時考えていた説。
単純に言うと、真理は、信念の集合から・・・つまり複数の主観から・・・導き出される、とする説。
マクダウェルの文脈では、理由空間の規範性を重要視し、経験における感覚の純粋性を軽視する説で、「所与の神話」に対置されていた。
漠然と主体性
漠然とモノを見ることと、そこに何らかの意味があるかを考えながら見ることは、認知としてはかなり次元が違っている。
後者は主体性としての悟性とも言えるわけで、突然カントの話になったりしてオモシロい。
言葉と世界
言葉で世界を語り尽くすことは不可能だ。
(全体という意味での)世界は存在しない(Mガブリエル)。
読むという行為 その3
決してデリダやドゥルーズ、ラカンなどが、その対象にならない。
それには理由がある。
つまり、象徴空間の中に意味を置いてくることが重要だ。
「テキスト外から語ることの不可能性」を語るような文体では、無意味の二乗になって、逆に意味が生じるかもしれない。
読むという行為 その2
『名指しと必然性』の代わりに、今、同様な効果を期待して読むとすれば、セラーズの『経験論と心の哲学』か、ブランダムの『推論主義序説』、マクダウェル『心と世界』になるだろう。
誰かオレの代わりに読んでくれるとありがたいのだが。
読むという行為 その1
クリプキの『名指しと必然性』は、オレにとって稀有な経験をさせてくれた。
つまり「読んで理解する」ことよりも、「読む」ことの遂行性の重要性を感じさせてくれたからだ。
クリプキの議論についていくこと、しかも酒に酔った状態で。
それがいかにオレにとって重要だったかなど他の人には解るまい。
解られたところで困るし。