進化論 その6 [メモ]
メモ。
一説によると、認識(認知システム)は真理を得るためのものではないらしい。
スティッチ『断片化する知性』など参照。
とすると、ますます進化論について語る術はなくなる。
たとえば、「認識論における正当化」を進化論と連結させて考えていたクワインなど参照。
進化論 その5 [メモ]
メモ。
オレたちが進化論について語ることができるのは、そういう仮説がどのような根拠で語られるか、ということだけで、それが正しいかどうかは、たぶん哲学の中ではなく科学の成果の中に求められる。
松本卓也と対談する夢
松本卓也と対談するという企画の夢を見た。
イマイチ意味がわからないが、夢というのはそういうものだ。
そもそもオレにはその資格がない。
ということは、なんらかの自負があり、それは何らかの形で報われるべきだという無意識の思考が存在する、ということだろう。
あるいは、「そういう理不尽な場面に放り込まれるので気を付けろ」という警告かもしれない。
だから無意識はオモシロい。
セラーズの微小レベル
私見だが、セラーズの言う「微小レベル」(『経験論と心の哲学』岩波P131)は物理的神経的に説明できる因果的反応を示し、「振る舞い」は理由空間で説明できるような行為を示すと解釈している。
認識論 その5
「認識」によって「知識」を構築するという直線的な話の流れは確かに問題がありそうだが、これは言語的な要素とか規範関与の要素とか信頼性の要素など、間主観的な概念によって解決できそうだ。
だからといって内在主義がダメかというとそうでもない。
・・・話がだんんだん難解・・・というか複雑化してきたので、この話はいったん中止しよう。
いずれにせよ、直線的な基礎付け主義ではなかなか難しい、というのがポイントになる。
認識論 その4
ゲティア問題の影響はどのようなものかというと、要するに認識論というジャンルが無くなってしまう可能性が出てきたことだ。
つまり、内在主義ではなかなか「正当化」の問題を説明しにくいことが明らかになってしまったのだ。
認識論 その3
ゲティア問題というのがある。
古典的な定義によると、知識となるには「正当化された真なる信念だ」と言われなければならないが、それは3つの要素で出来ている。
(a)その命題が信じられている
(b)その命題が真だ
(c)その命題を信じる人が信じるに足る理由を持つ
そこでゲティア問題はこれ。
1.スミスとジョーンズは、ある会社の採用面接にきた。
2.スミスは、「ジョーンズが採用され、かつ、硬貨が10枚ジョーンズのポケットに入っている」という事実を確認した。
3.スミスは、この事実から「採用されるのは、硬貨が10枚ポケットに入っている者だ」との命題を信じている。
4.スミスは知らないことだが、実際に採用されるのはスミスであり、かつ、スミスのポケットにも10枚の硬貨が入っていた。
つまり古典的な定義(a)(b)(c)を満たしているにもかかわらず、真なる知識を持っているとは言えないような事例を、ゲティアという人が論文で発表したわけだ。
そして、この影響力は大きかった。
認識論 その2
で、正当化とは何か、それはどのようになされるのか、それは本当に正当化なのかということをいろいろ考えていくと、夜も眠れなくなる。
おそらく、直線的な基礎付け主義が自然な発想だろうが、それがうまくいかないとなったときに、どう考えたらよいだろうか。
認識論 その1
認識論の教科書を読んでいる。
なかなか面倒な学問だと思う。
ベースに「知識とは正当化された真なる信念だ」という古典的定義があるんだが、その「正当化」とは何かを突き詰めていくと、なかなかはっきりしないところがある。
そこで古典的定義を修正したほうがいいのか、するならどうしたらいいのか、ということで学派に分かれていく。