ドゥルーズとスピノザ
ドゥルーズがスピノザを支持したのは、「存在の一義性」による。
ただ、それはバディウの言う、ある種の「全体主義」とは別だと感じる。
それはドゥルーズが全体主義とは無縁だったからではなく、ニーチェの多義的解釈に忠実だったから。
あ、いや、「ニーチェの思想が多義的だ」ではなく、「ニーチェを多義的に解釈する」のがドゥルーズであり、その中に当然ナチズムというか全体主義の影を見ていたはず。
株式投資で儲ける方法 その5 [株式投資]
では、分析能力とは何か。
イマイチよくわからないが、他人の見えないものを見る能力だ。
つまり、オカルトの世界だ。
株式投資で儲ける方法 その4 [株式投資]
つまり、必要なのは情報だ。
ただ、普通の情報だけではエッジは得られない。
かといってインサイダー情報など得る手段がないし、違法だ。
というわけで、分析能力が必要になってくる。
株式投資で儲ける方法 その3 [株式投資]
下がるとわかっている銘柄を、数か月間、空売りで保有する。
問題は「下がるとわかっている銘柄」は何か、だ。
株式投資で儲ける方法 その2 [株式投資]
上がるとわかっている銘柄を2年くらい保有する。
問題は「上がるとわかっている銘柄」は何か、だ。
ヘーゲル解釈の違い
ブランダム的なヘーゲル解釈は、相互主観性と相互承認を中心に展開する。
個人的には、「崩壊する全体主義」こそがヘーゲルの真骨頂だと思っているので、ブランダムの発想はやや弱いと感じている。
ヘーゲルとブランダム
メモ。
(ブランダム的な)カント、プラス、推論主義、イコール、ヘーゲル。
・・・こうしてブランダムは、構築主義とは別のロジックを提示しているように見える。
つまり、プラグマティズム(ある意味カント的)に基礎付けられた推論主義。
「強いホーリズム」は存在しない、あるのは「弱いホーリズム」のみ。
科学主義へ向かうのではなく、あくまでもプラグマティズム的な相互承認主義を強調することで、ヘーゲルとの親和性を高める。
プラグマティズム
存在論的な意見対立とはあまり関係ないが、プラグマティズムという考え方がある。
科学主義と親和性が高そうだが、そうではない学派もあり、興味深い。
個人的には科学主義が存在論を取り込むことで、少しずつ変質していく様子がオモシロい。
実在論からの攻撃
実在論から科学主義への攻撃は、結構激しい。
メイヤスーとガブリエルを読めばわかる。
しかしながら個人的には実在論側の優位性を感じない。
もちろん科学主義側が優位だとも思わないが。
科学主義
科学主義は、ある意味構築主義との親和性があると思うが、「反証可能性」により安易な独断的構成を阻むようにしている。
だから誠実だ・・・という主張になる。
構築主義
構築主義(構成主義、相関主義)的な思考は、自分の好きなように世界を構成できるから、きっと楽しいに違いない。
だから、構築主義的な発想を選んでしまう。
内から外から
テキストの内側からテキストの外側を語るという難れ技が、脱構築的思考の特徴だ。
安易に「存在しない」外部(単純に言うと神)の視点から語ることの傲慢さをよく理解している。
大他者の享楽
大他者だろうが他者だろうが、「そこ」に享楽はあるし、そして、「そこ」に主体はない。
享楽は身体的あるいは宮廷恋愛的だ。
他者は主に神、母、あるいは父だ。
というわけで、厳密な定義は必要ない。
重要なのは「そこ」で何が起こっているのかを、把握することだ。
税務署との戦い その後
そういえば数か月前、税務署が来たので対応していたが、今回はあまり大したことがなかった。
しかし、こういうのは勝った負けたではないので、気にしないで頑張ろう。
扱いが難しい年頃 [無意味的会話術]
M「扱いが難しい年頃って言われちゃった」
監「おお、久しぶりじゃん、元気なの」
M「扱いが難しいけど、元気だよ」
監「なんだよ、絡むね今日は」
M「絡んでないよ、久しぶりだから勝手がわからなくて」
監「そんなの勝手にすればいいよ」
M「いやだからその勝手が難しい年頃なの」
監「お、今日は冴えているね」
M「いつも冴えてるよ、ボクは。老人の監督とは違いますよーだ」
監「うんうん違うね」
M「監督はお金持ってるって言ってたわね」
監「ビンボーだよ、ビンボーダンス踊ってやろうか」
M「バカじゃないの」
監「バカでーす」
M「では監督のお金でバーッと行こうか」
監「なんだよ、オレの金でって、ひどいなあ」
M「何ならSさんも交えて3Pとか」
監「おまえさあ、新橋で飲んでるエロ親父みたいなこと言うなよ」
M「前にも言ったけど監督がボクを下品にしたんだからね、責任とりなさい」
監「責任って、オレは無責任だから責任は難しいな」
M「そんな無責任なことを言ってはいけません、オトナなんだから」
監「永遠の少年ってことで勘弁してください」
M「絶対無理」
監「出たな4字熟語」
M「違うでしょ」
監「違うなあ、確かに」
M「なんか最近楽しいことがなくて」
監「友達と旅行に行ったんだろ」
M「もうすっごい楽しくて、また行きたくて、だから監督お金ちょーだい」
監「だからビンボーダンスだって言ったじゃん」
M「ああ、ボク、踊りたくなってきた」
監「なんだよ」
M「クラブ連れてってよ」
監「やだよ、うるさいし、ガキばっかだし」
M「なによ、いつもウルサイ音楽聴いているくせに」
監「たしかにそうだな」
M「よし、きまり」
監「決まらないだろ、どこに行くんだよ」
M「六本木かな」
監「遠いな」
M「タクシーでいこう」
監「絶対無理」
M「監督、4字熟語・・・じゃないけど、ボクが先に言ったんですけど」
監「絶対無理無理」
M「おいおい、何言っちゃってんの、この人」
監「無理無理無理無理」
M「こら、狂ったふりしてもダメだよ」
監「ということで、今日はおしまい」
M「終わってないし」
監「人生に疲れたよ」
M「歳だから仕方ないわね」
監「そういう年頃ということで」
M「まあ、今日はこの辺で勘弁してあげるよ」
ラカンとかそういうヤツ おまけ その4 [無意味的会話術]
・・・・
監「しかしオレたちってマジメに話しているよな」
S「そうかな、極めて不真面目だぞ、とくに監督は」
監「しょうがないじゃん、そこがオレの売りなんだし」
S「ちぇっ、マジメに考える身にもなってよ」
監「まあまあ、今度奢るから」
S「たまには高いところで飲みたいな」
監「そんな金はない」
S「またまた、持ってるくせに」
監「持ってるわけないじゃん」
S「株式投資をやっているだろ」
監「ああ、最近ようやく元が取れてきたような」
S「スゴイじゃん」
監「つーか、安いときに買って持っているだけだからなんとも」
S「それを利確して飲みに行こうぜ」
監「まだまだ膨らませる予定だからダメ」
S「そんなこと言っていると暴落するぞ」
監「空売りもやってるし」
S「へえ、本格的だね」
監「普通だよそんなの」
S「スタンスは中長期だっけ」
監「2、3年持ってどうかってのがオレには合っているのかな」
S「それはそうと次のネタはどうすんの」
監「どうしようかね、そもそもシリーズ化するなんて考えてなかったし」
S「オレよりMちゃんが出てたほうが受けがいいんじゃないの」
監「Mはなあ、いい子なんだけど、扱いが難しい年頃に」
S「オレは硬派な学問ネタなら何でもいいぜ」
監「んー、じゃあSの独演会でも企画しようか」
S「ダメだよ、ブログなんだから会話形式の方がいいだろ」
監「文章が長いと読んでくれないからな」
S「オレはいくらでも長文書くよ」
監「まー穴埋め程度にお願いしようかな」
S「穴埋めだったらやらない」
監「そりゃそうだよね。まー考えておきます」
S「よろしく」
・・・
ラカンとかそういうヤツ おまけ その3 [無意味的会話術]
・・・
監「メイヤスーの親分のバディウが、ラカンについて書いているんだよね」
S「バディウは数学と精神分析と毛沢東の人だから」
監「まずは数学的存在論か・・・これはメイヤスーに受け継がれている」
S「カントールの集合論を存在論に・・・ってなんでやねん、という内容だし」
監「でも無から有を産み出す根拠を数学にってのは画期的じゃん」
S「オカルトだよ」
監「そうだけど、オモシロいからいいじゃん」
S「不真面目だな」
監「そっちが生真面目すぎるんじゃないの」
S「永遠に噛み合わないな、オレたち」
監「思想は論理的厳密性よりエンタメ性の方が重要だと思う」
S「さっぱりわからない(キッパリ)」
監「・・・ええと、そういえば、ドゥルーズのバディウの係わりってどうなのよ」
S「存在論における<一>と<多>の対立概念からの脱却ってことかな」
監「そうするとどうなるのよ」
S「その質問に気持ちがこもってないな」
監「だってデリダとかドゥルーズは<脱却>ばかりなんだもん」
S「外へ向かう思考ってことだからな」
監「ラカンでは現実界は外ってことだけど」
S「なるほど」
監「それほど力動的というか交通的な扱いはしていない」
S「ドゥルーズと比較してってことだね」
監「つまり脱却ってのは静的なものから動的なものへってことでいいのかな」
S「そう、それが公式みたいなもの」
監「で、毛沢東はなんなの」
S「政治思想面だけど、これは説明が難しいな、評判悪いし」
監「中国でのその後の評価と、当時(68年前後)のフランスの<気分>に落差があるってことだね」
S「立場によっていろいろあるから言いにくいけど・・・オレはサヨクじゃないから詳しくないし」
監「オレはウヨクだよ」
S「また適当に言ってるな、日和見主義だって言ってたじゃん」
監「忘れてた・・・で、ラカンなんだけど」
S「バディウの文脈だと、吉本でいうところの『対幻想』みたいなもんかな」
監「ああなんとなくわかる」
S「本当にわかるの」
監「いやオレはいつでもテキトーだし」
S「でも監督は吉本も読んでいるよね」
監「全部は無理だけど、あのおっさんはオモシロいから」
S「でも政治的な影響は受けないんだ」
監「オレは抑圧が得意だからね、アルチュセールを読むときもそうだし」
S「そうか、便利だな」
監「・・・うーん、バディウの話はなんとなく身にならない感じだからカットするよ」
S「カットでいいんじゃない。バディウはジジェクの時にセットでやればいいじゃん」
監「そうだなあ、正直バディウについては興味が薄いから忘れることが多くて・・・」
S「そろそろ介護が必要か」
監「うるせー」
・・・
世界の定義の悪意による単純化
では次に、ガブリエルの世界の定義について考えてみよう。
彼は世界の成り立ちを、アキレスと亀のパラドックスと同様な形式の、無限作業によって定義づけている。
一見、そうとは見えないように巧妙なやり方で。
だから彼のロジックでは世界そのものを表すものが、論理的に確定されない。
この矛盾を避けるには、世界の定義をもっと曖昧にすればいい。
いや、世界の定義などどうでもいいのだ。
なぜならば世界はオレたちの目の前にある、所与、前提条件だから・・・と言い切ればいい。
これもまたガブリエルの意義ある思考を、悪意ある単純化によって貶める方法(可能性)の一つを紹介しただけで、ガブリエルが正しいとか間違っているとかを主張することを目的としていない。
悪意による単純化の続き
蛇足で書いておくと、だからメイヤスーは間違っている、などという主張をオレはしません。
意味のあるロジックというのは、常に小さな矛盾というか袋小路を内包しているから。