避ける=忘れる
自己言及性を避けるために効率的なのは、完璧さを求めるのではなく、少しの間、忘れてしまうことだ。
自己言及性
自己言及性は、ついついパラドックスにつながってしまう。
だからと言って生活に困るわけではない。
なのでタルスキに対して「まーそれはいーんじゃねーの」と応えたくなる。
英語が完全な言語ではないのは大した問題ではなく、些細な問題だ。
大文字の他者 その7
そこにまた、マルクス・ガブリエルの新実在論が絡んできて、オレの頭を活性化させたわけだが、現時点で上述の両者を凌駕してはいない。
それはメイヤスーを含めて今後の課題だ。
新しいタイプの「実在論」は、現時点ではまだ、カントにおける「スウェーデンボルグ」と同じレベルにありそうだ。
大文字の他者 その6
オレがヴィトゲンシュタインとジジェクを基礎に置いていたのは、そういう共通項があったからだろう。
大文字の他者 その5
つまり、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論には、最初から規範主義とアナーキズムが同居している。
で、彼の頭はいつもそのどちらかに揺れながら死ぬまで思考を続けたとオレは考えている。
大文字の他者 その4
デイヴィドソンは、「コミュニケーションのアナーキズム」と野矢茂樹に言われるほど「規範」を無視した。
これは何かに対する挑発にすぎないとオレは考えるんだが、それはともかく、この言語の規範を巡る対比は哲学史的には重要だと思う。
大文字の他者 その3
セラーズはそれらを前提としながら、言語的な規範を重視した。
ブランダム等に引き継がれた「理由の空間」を、それと言い切るためには、言語的な規範は捨てられない。
大文字の他者 その1
ラカンの大文字の他者があったりなかったり・・・について、論考したことがあったが、その前提には言語の性質があるとオレは踏んでいる。
後期ヴィトゲンシュタインは、(言語的な)経験主義の基礎となるものはなく、あくまでも(言語の)使用が最初だという観点を導入した。
法律
つまり法律とは、いろんな側面をカバーしている関係で、異なる法律の一貫性は、ないものと考えたほうが良い。
弱者という主張
オレの経験に過ぎない話だが、本当の弱者は、自分が弱者だという主張は控えめだ。
中途半端な弱者が、自らの立場の弱さを主張する傾向にあるようだ。
いやあくまでもオレの経験の範囲内の話です。
クレイマークレイマー
クレイマーというのはどこにでもいるもので、それに対処しなければならないとなった場合あるいは業務命令で対処せよとなった場合、それは仕事だと割り切って、積極的にご意見を拝聴するわけだが、揺れ動きすぎるロジックや強すぎる感情論に辟易して、こちらの精神状態に悪い影響を及ぼすことが多い。
責任者出てこい、と言いたくなるのはこっちの方だ、と主張したくなる。
オレたちが生身の人間だということを理解してもらえるか否かで、オレたちの選択肢が決まってしまうという現実を・・・会社と・・・そしてお客様が・・・理解しないことを前提として生きることの辛さは、経験者でないとわからないだろう。
そのあと、精神科の医師のところに行ったなど、お釈迦様でも気づくまい。
もちろんオレはただの付き添いですが。
ラカンの理解
そういえばラカンを理解するのにラカンを読む必要はあるが、それだけでは到達が不可能な側面もある。
なので、ジジェクを読むという手があるし、フィンクを読むという手もある。
日本人による文献では松本卓也という選択肢もあるので、オレたちは恵まれているのかもしれない。
「アンコール」が翻訳されたのがどういう事情か知らないが、一つの手掛かりとして提出されたことには大いに感謝しよう。
昔ほどラカンに依存している暇がないので、積読以上の読書にはならないんだが、これもまた、効果的かつ典型的な相互受動性と理解している。
哲学の道 その2
ある意味プランBなんだが、そのほうが思考が分散化し発展していくという副産物はなかなか見逃せないものがある。
哲学の道 その1
ある哲学者を研究しようとして、その哲学者に関する文献が少ないとすれば、彼に近い別の哲学者を見つけて研究する、という発想がある。
というか、実際そういうケースは個人的に多い。
成長してください
人として成長しない限り他人には認められない、という原則は大きいでしょう。
逆に言うと、「他人に認められない」という経験をした人は、他人が悪いだけではなく、自分も悪いからそうなったんだ、という感覚を一方で持たないと、人として成長していないことになります。
なので、正しく自己分析をして、人として成長してほしいと思います。
勘違い
なので、自己分析がしっかりできていない人間が何を言っても、「そりゃ違うでしょ」と言い返されてお終いになる。
そこを理解できれば立派な大人と言える。
キャパシティの話
キャパのない人間が「我慢できない」と言えば、「そりゃ違うでしょ」と言われておしまい。
キャパがそれなりにあると推測される人が「我慢できない」と言えば、「うんうんわかるわかる、そりゃそうだよね」という話になる。
その違いは大きいというか、当たり前というか、人間力の問題というか、そういうキャパシティをもっているか否かの話にすぎない。
我慢の限界
こちらが我慢できないことを言うのであれば、我慢しなくてもいい、という判断はどこかでしなくてはいけないだろう。
奴隷ではないので。
人間の力の限界
とはいえ、相手によってはそこまでやる必要はないだろうという線引きがいつでも生じてしまう、というのも本音だ。
理解力 [サラリーマン]
つまり、少しでも相手の言うことを理解しようとしなければ、それはコミュニケーションの放棄ということなので、そういう相手に対して何を言っても無駄、というロジックはそれなりの説得力はある。
もちろんビジネスは、そういう相手をいかにしてウチのファンにするか、という要素もあるので、上述のすべてが正しいとは言わない。
まあまあまあ [サラリーマン]
そういう時にオレが言うのは「まあまあまあそうなんですけど、おっしゃっていただいたことで、○○と××の関連性が全く感じられないんですけど」という程度のこと。
それで察していただけないのであれば、それ以上のことは言うだけ無駄だからビジネスにはならない。
人の話を聴くべきか否か [サラリーマン]
なぜこういうタイトルになるかというと、他人の話を聴かない人と、どのような会話をすべきかというビジネス的な場面があったからだ。
それ以外の意図は全くない。
現代性
なので、哲学の現代性を維持するには、コミュニケーション論から付かず離れずのバランスをとりながら考えていくしかないと思われる。
脱コミュニケーション
とはいえ、一般的な意味での「コミュニケーション」から離れすぎても、哲学としての現代性は失われるような気がする。
自己との対話
コミュニケーションに関して昔ながらの哲学が言えるとすれば、たぶん「自己との対話」になるだろう。
それこそが観念論や概念論の前提となっているはずだ。
コミュニケーション
哲学の前提にコミュニケーションを置こうという発想は、なかなか現代では当たり前ではないような気がする。
ヴィト的
つまりヴィトゲンシュタイン的なものについて語ろうと思うなら、モード(ここでは「最先端」「流行」くらいの意味)とは違う方向を考えたほうが良いのかもしれない。