ゼータ関数の謎 その4
で、S<1の「ちょっとメンドクサイ」の延長線上に・・・複素数を含んだうえで・・・素数定理とかリーマン予想を考える礎となるんだが、純粋な文系諸氏はそこまで考えると頭がウニになるので近寄らないほうが良いかも。
これを仮に「純粋文系批判」と名付けておこう。
ゼータ関数の謎 その3
とりあえずゼータ関数は、S>1なら収束する、S<1のときは、「ちょっとメンドクサイ」と覚えておけばいい。
ゼータ関数の謎 その2
この謎の正体を探るには、その背景が必要だ。
わかりやすいのはSが1より大きいときで、これは普通にグラフで表現される。
ところがSが1より小さいとき、どう考えたらいいのか、よくわからない。
それをなんとなく理解できるのは、虚数を考えたときだったりする。
それなら、ゼータ関数がマイナスになったりするのも、意味不明にせよ、虚数だけにそんなこともあるのかな、と騙されてもいいような気がしてくる。
知恵があるなら、複素数平面を想定し、そこに ζ(s) の高さを加えた3次元グラフを頭に描けるだろうが・・・。
知恵のない文系諸氏は、騙されたということで自分を納得させないと、その先には進めない。
悪しからず。
ゼータ関数の謎 その1
ゼータ関数で、S=0のとき、
ζ(0)=-1/2
になるという話を聞いて(読んで)、もうそこから先に進めなくなった文系諸氏は多いだろう。
「だってnのゼロ乗は1なんだから、この関数は無限に増えていくはずだろう、それなのにマイナスになるなんてありえない」
その気持ちはよくわかる。
だいたいゼータ関数のグラフの全体像を眺めようとしても、無理だ。
なぜ無理なのかは数学(特に解析学方面)に詳しい人に聞いていただくとして、実にクレイジーな感じがして行き詰まる。
それに加えて、微分積分や複素数に対するアレルギーが発症すると、「もうリーマン予想なんてどうでもいい、リーマン・ブラザーズだって手に負えないし、クレジット・デフォルト・スワップがどういう仕組みなのかわからないのと同じだねっ」という意味不明の叫びをあげてしまうだろう。
オジーとブライアン
ブラックサバスのセカンド「パラノイド」を聴こうと思ったが、思い直してイーノの「テイキングタイガーマウンテン」を聴き始めた。
オレにとってオジーとイーノは近い位置にある。
一見無関係のようだが、実に似ている、とオレは感じる。
謎だ。
斜陽産業
糸谷八段は昔「将棋は斜陽産業」と言い放った。
だからこそ彼は普及に力を入れる。
さて、では関数電卓は斜陽産業か。
たぶん、そうだ。
将棋同様ソフトに凌駕されるだろう。
とはいえ、それらはきっと無くなりはしない。
関数電卓の革命 その5
多分、カシオのfx-375ESが理系学生の入門機として普及しているものと推測される。
じつはオレも持っていたりする。
とはいえ、fx-260 SOLARII という海外のみで販売しているカシオ製の「標準入力型」も持っていて、こっちのほうが扱いやすく馴染みが深い。
単に375-ESを使い切れていないだけだと思うので、少し勉強してみよう。
関数電卓の革命 その4
関数電卓の機能はパソコンのソフトやスマホのアプリに凌駕されつつあるので、もしかすると衰退していく商品だと思われるだろうが、エクセルが発達しても、計算式の間違いを発見するための検算に電卓は欠かせない、という感覚があるなら、関数電卓の生きる道はあるだろう。
関数電卓の革命 その3
というわけで、今の主流派は「数式自然表示」らしい。
2010年くらいから主流になったとのことなので、おっさんにはついていけないが、元の数式とほぼ同じものが表示されるので、直観的に理解できるし間違いも見つかりやすい。
関数電卓の革命 その2
次に登場するのが数式の順番通りに入力する方式。
2行で表示され、上の行に計算式が表示されるというもの。
確かにこれは便利で数式の訂正もしやすいが、多数の記号を使うなど式が複雑化していくと逆にわかりにくい面もある。
関数電卓の革命 その1
関数電卓といえば、いわゆる「標準入力」と言われるような入力方式が当たり前だった。
つまり「sin30」を計算しようとすれば、数字「30」を先に打って、そのあと「sin」のボタンを押す。
ところがそれでは複雑な計算式だと、却って面倒なことになる。
ルートの中が「分数の2乗が二つあってそれを足す」だったりすると、まずルートの中を計算してから最後に平方根を求めることになる。
スティング
現場の思考
ある意味『哲学探究』は現場の思想だ。
で、精神分析も現場から上がってくる思想だ。
しかしながら、その現場の要素の取り扱い方がまったく異なるために、展開がまったく違う。
生の素材を抽象化し、普遍化に耐えうるように再構成して、演繹化を図るというのは、ある意味科学的な思考だ。
そして、精神分析はそれに成功していない。
ただ、姿勢としてはそういう傾向になっている。
一方で『探究』は生の素材を、抽象化しないように注意深く取り扱っている。
いずれにせよ極端だ。
ガッツリ
ヴィトゲンシュタインをガッツリ読むのは好きなんだが、あからさまな「非形而上学」的な思考に辟易する瞬間がある。
だったら論考の方がマシ、と考えるときもあって、なかなか面白い。
哲学探究 その3 [メモ]
メモ。
このような「能力的なものの前提」というのは、一般的にもおかしなことがわかる。一般に能力は、具体的に発揮されなければ、そもそも能力として「存在」できない。「あの人には能力がある」といういい方ができるのは、その能力を認めることのできる具体的事実が過去にあったからだ。その過去の事実を根拠にして、現在でもその過去の事実と同様のことが、具体的に発揮されるはずだと推測しているだけだ。現時点で「その人」に、過去と同じことができるかどうかは、実際にやってみなければわからない。何かの事情で、その「能力」が衰えている可能性もあれば、本来そのような「能力」はもちあわせていなかった場合もある。その過去の時点で、突発的にできただけだったのかもしれない。このように考えれば、われわれにわかるのは、具体的事実と、知覚できる現実だけだ。極端ないい方をすれば「能力」というのは、すべて根拠のない推測にすぎない。たしかに「能力」という言葉を使いたくなる状況はあるだろう。しかし、それは、あくまでもその場で確認しているわけではないということを自覚している必要があるだろう。
(以上…中村昇『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』P148-P149)
哲学探究 その2 [メモ]
メモ。
つまり、われわれにわかるのは、われわれが音声を使って話しているという事実だけだ。それ以上はすべて推測にすぎない。われわれ人間の言語を使った会話は、ある種の能力があるからできるのだとか、理性なるものを人間だけがもっているので話すことができたのだ、といったことは、すべて推測しているにすぎない。
哲学探究 その1 [メモ]
メモ。
知覚でき、複数の人間によって確認できる場面から出発する。われわれの精神や「内側」の体験についても、あくまでも知覚できる「公共」の場から出発してそちらへ向かう。言語ゲームの現場としての<ここ>から、精神や私的な体験の方へ向かう。しかしたとえば、内的な経験は存在しないなどと極端なことを考えているわけではない。そのような極端な考えは、あきらかに実証できない形而上学的な前提といえるからだ。だが逆に、内的な経験があるからこそ、さまざまな現実の事象が生じるという方向もとらない。それも同じように形而上学的な前提だから。あくまで、多くの人たちによってたしかめることのできる「場」にとどまり、必要とあれば、その場から出発して「内側」へ向かう。
言語はなぜ その6
オマケ。
この本を読むのに、個人的に役に立ったのは、野矢茂樹の『哲学・航海日誌』だ。
あまり関係ないようで、少なくともデイヴィドソンについての独自の見解は大いに参考になった。
このイアン・ハッキングの本は、計略的ともいうべきその内容的不足のおかげで、『哲学・航海日誌』のように読むべき本をたくさん引き寄せる。
時間も金もないので・・・一番問題なのは知的持久力がないことなんだが・・・オレは、大いに困ってしまう。
言語はなぜ その5
オレたちは、とくに20世紀の分析哲学者は、過去の思想を振り返ったときに言語と概念を取り違ってしまう。
かつて「概念」だったものを、まるで「言語」のように扱っている。
しかし、それだと、ヘーゲルがなぜ『精神現象学』というアホな本を書いたのか、理解できなくなってしまう。
その無関係の関係性をオレたちに示してくれたのがこの本だ。
つまり、概念を考えることと言語を考えることはまったく別だ。
まったく別だ・・・つまり無関係は・・・一つの関係だ。
ということが分かるというのが、哲学史としてどれだけすごいことなのか、オレにはわからない。
しかし、オレにとっては非常に得難い読書体験だった。
言語はなぜ その4
とはいえ、この本にはキリスト教の影響の話はあまり出てこないし、ドイツ観念論は出てこないし、ヴィトゲンシュタインの美味しいところは冷蔵庫の奥にしまわれたままだ。
フレーゲとフッサールの関係性にも触れていないし、そこからハイデガーがどう展開したかも書かれていない。
ラカン、ドゥルーズやデリダが、必要以上にソシュールの枠組み(の発展形)に留まり続けたことなど、まったく書かれていない。
にもかかわらず、イアン・ハッキングはそういったものすべてを、言外に、行間に可能性として落とし続けた。
書こうと思えば書けるにもかかわらず、簡素性と明解性を重んじたために捨象したというワケだ。
個人的にはそれで成功だったと思う。
その落とされたモノをどのように拾うのかは読者に任されている。
だからオモシロい。
言語はなぜ その3
それ以外にも、もちろん主体のあり方も違うし、背景も違う。
個人的にはキリスト教的神が西洋哲学思想の枠組みに入り込んでくる、その力強さにウンザリしていた。
その関係性というか歴史的経緯を理解させてくれたのがこの本だ。
言語はなぜ その2
個人的に大陸哲学と分析哲学の間には認識論的断絶があると思っていたんだが、その断絶には、実は奇妙で微妙な類似点があった。
それは主体と対象の間に何があるか、だ。
17世紀には「概念」がそこにあった。
20世紀からは、そこに「言語」が置かれた。
言語はなぜ その1
私的言語
ヴィトゲンシュタインが私的言語を否定的に語るのは、17世紀の思想家に対する違和感ではなく、自分の立場に近いはずのラッセルに対する違和感だと思う。
第三世界の染み
ポパーの言う第三世界と第二世界の間に染みができることがある。
それが大陸哲学の重要なテーマのひとつだった。
ジョージ
ジョージと言えばジョージ・ハリソン。
彼は地味ながら名盤をたくさん残した。
今はオールシングマストパスを聴いているが、これがまた渋い。
ラッセルの言語観
ラッセルは恐らく神の言語を想定していた。
そうしないと論理的前提に過ちのある可能性を除去できない、と考えていた。
なので、彼の理想的言語観は私秘的な傾向へと向かう。