アフリカン・ヘッド・チャージ
たまに Afrian head charge を聴きたくなる。
dub病の影響かあるいは単なる資質か。
エイドリアン・シャーウッドは、ごく稀に、いい仕事をする。
ひとつの
ひとつの、というのは特異性なんだが、それはもはや象徴で表現できるものではない。
とはいえ、逆に言うと言語(ひとつの・・・)から抜けられない、という側面もある。
つねに自分に返ってくる
リベラルアーツは「すべて自分に返ってくる」という学問だと定義しよう。
踏み込んでいうなら、その理論は、その理論を語る人間にも当てはまる、というようなものだ。
すべてが自分に返ってきすぎるという問題を除けば、概ね、有効な思考だろうが、あまり流行らない。
可能と断裂
つまり、断裂がありながらも、継続性がある。
それは、単なる反復にすぎないとしても。
反復こそ、複合の影響下にある・・・というか、本能の詳細はオレたちには検索不可能だ。
性関係
たとえば誰かが「『性関係』はない」と言ったとすると、その真意を推し量ろうとするならば、『性関係』の定義をそれなりに明解にしなければならない。
しかし、それを敢えて明解にしないとすれば、それはある種のスキャンダル狙いということになる。
そして、その主旨を知ろうとするなら、少なくとも60年代に遡れるし、その部分的な解釈は30年代でも可能かもしれない。
女性なるもの
たとえば誰かが「『女性なるもの』は存在しない」と言ったとすると、その真意を推し量ろうとするならば、『女性なるもの』の定義をそれなりに明解にしなければならない。
しかし、それを敢えて明解にしないとすれば、それはある種のスキャンダル狙いということになる。
そして、その主旨を知ろうとするなら、少なくとも60年代に遡れるし、その部分的な解釈は30年代でも可能かもしれない。
アンコール
アンコールが、なぜアンコールなのかというと、文字通り解釈すると、ポスト構造主義ではないからだ。
つまり、70年代のミレールの師は、ポスト構造主義に多大な影響をあたえながら、ポスト構造主義的ではない、ということになる。
第29節アトレティコ・マドリ戦 [サッカー]
第29節はフエラ(アウェイ)のアトレティコ・マドリ戦。
メトロポリターナでのアトレティコ・マドリ戦、相性がいいので当然勝ちにいくべきなんだが、とても勝てる気がしないというのが本音だ。
するべき補強ができていないことと選手の怪我、および監督の力量によって、周囲の期待よりも低迷しているバルサなんだが、最近はなぜか点が取れるようになってきた。
ようやくチャビバルサの、ハイラインでの勝ちパターンができつつある。
とはいえ、これはフレンキーやペドリがいないから仕方なくできたパターンという見方もあるので、なかなか難しい。
ビルドアップ、特に受ける側の動きの改善ができているのは、良い傾向だ。
チャビの対応は遅いんだが、時間をかければそれなりに結果を出すことができる、それでは、CL優勝など望めないんだが。
さて、アトレティコマドリ戦はなんと0-3で勝利。
こんなことを心配していたのが冗談のようだ。
チャビの戦術浸透と、選手の戦う姿勢が蘇ってきたことが要因だと思われる。
とはいえ、この不安定な戦い方は、ある意味バルサらしくもあるとしても、張り詰めた糸が切れた時の反動が怖い。
それが杞憂だということを祈ろう。