突発性デリダ嗜好症候群
ときどき、意味もなく突然デリダを読まずにはいられなくなる、というピョーキに罹患する。
これはもう末期の症状だろうという自覚がある。
動機としては、現実逃避の、さらなる現実逃避ということになるんだが、自分でもよくわからない。
フランス現代思想の多くには特徴があって、それは、言語と事態の一致が原理的に可能だと考えていることと、その一致から逃げ切れることは実践的に可能だと考えていること、そしてハイデガーは少なくともヘーゲルより上と考えていることだ。
なので、なんとなくその周辺を深掘りして巡ることの多いデリダの文体とロジックが恋しくなるのかもしれない。
オレが学生時代に爆笑しながら読んだ『ポジシオン』はいまでも愛読書だし、これまた学生時代に雑誌掲載されていた『真実(真理)の配達人』(翻訳『絵葉書2』に収録)はいまだに笑えるし、さらには無数の翻訳が出ているにもかかわらず、最近では講義録まで翻訳され始めて、さすがに手を出すまいとは思ってはいるが、きっと数年後に何冊かは半笑いで読んでいることだろう。
ヤバい、早く治さないと。
ハイデガーとヘーゲル 続き
精神分析はヘーゲルと親近性がある、とオレは見ている。
ハイデガーが絡むのは、とのあえず現存在分析ということになりそうだが、あるいはデリダ的精神分析というものがあるとすれば、それは間違いなくハイデガー的だと言える。
それに対してミレールの師のハイデガー理解は、デリダも述べているが表面的にすぎない。
その理由は、ミレールの師が歴史の「解体」を志向しないからだ。
というわけで、オレは小笠原晋也氏の居る位置に、なかなか立てそうにない。
ハイデガーとヘーゲル
ヘーゲルはギリシア哲学の伝統・・・というか、そもそも哲学の源流は何か、ということを踏まえて思想を展開している。
ハイデガーは、その歴史的伝統を解体することから始める。
なので、この二人はまったく立場が違う。
デリダと鍋の論理 続き
その昔(2020年8月)、こう書いたが、肝心なことを忘れていた。
ポジシオンの原註33にも載っている・・・ということを。
個人的な感触ではあまりにも当たり前なので、書くのを忘れていたようだ。
反省しよう。
入門書や解説書 続き
原文には原著者というフィルターがかけられている。
訳文には訳者のフィルターがかけられている。
解説書には解説者のフィルターがかけられている。
入門書には、入門書の著者のフィルターがかけられている。
原文のフィルターは当然として、訳者のフィルターはたいていの場合許容範囲内だが、あと二つのフィルターは有害とさえ言える。
なぜなら思想を学ぶ際には、原著者や訳者のフィルターと自分のフィルターとの違いを比較することが理解への道となるからだ。
・・・とはいえ、前回最後に書いたように、そんなことはどうでもいい、どんな学習でも数十年飽きることなく続けることができれば誰も文句を言わなくなる。
入門書や解説書
入門書や解説書は危険だ。
なぜなら、「違う」からだ。
その存在は否定しない、多少は役に立つことがあるし。
しかし即座に原文や訳文に取り組む方がいいし、それで挫折するなら挫折した方がいい。
中途半端な理解は、何も知らないより質(たち)がわるい。
例外はある、つまりその思想家についての「中途半端な理解」という勉強を40年以上継続しようという気概があるなら、また話は別だ。
アフリカン・ヘッド・チャージ
たまに Afrian head charge を聴きたくなる。
dub病の影響かあるいは単なる資質か。
エイドリアン・シャーウッドは、ごく稀に、いい仕事をする。
ひとつの
ひとつの、というのは特異性なんだが、それはもはや象徴で表現できるものではない。
とはいえ、逆に言うと言語(ひとつの・・・)から抜けられない、という側面もある。
つねに自分に返ってくる
リベラルアーツは「すべて自分に返ってくる」という学問だと定義しよう。
踏み込んでいうなら、その理論は、その理論を語る人間にも当てはまる、というようなものだ。
すべてが自分に返ってきすぎるという問題を除けば、概ね、有効な思考だろうが、あまり流行らない。
可能と断裂
つまり、断裂がありながらも、継続性がある。
それは、単なる反復にすぎないとしても。
反復こそ、複合の影響下にある・・・というか、本能の詳細はオレたちには検索不可能だ。