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真実の配達人読了


 というわけで、デリダ『真実の配達人』読了。

 なるほど、フィクションによる双数性の強調が、象徴界的三角形を凌駕する・・・それは文学的効果だ・・・という夢を見るのがポスト構造主義の流儀なのかもしれない。それに対して、精神分析は頑固なまでに教条主義だ。だから脱構築の対象だ・・・とやりたくなる気持ちはよくわかる。

 とかなんとか言いながら(←音声=ロゴス中心主義!)もデリダが記入する、ウニョウニョとした論理の流れは、フロイトのそれと共通で、慎重なんだか退屈なんだかよくわからない空間へオレたちを誘い、魅了する。

 主体が無限にシニフィアンと入れ替わり続ける・・・という現象、永遠の「主体の意味未決定」現象が誤配に結び付く・・・ということもあり得るだろう。しかし、無限に入れ替わり続けたところで、・・・・仮にこれを「無限な個別性」とすると、もう一つ別の、何か・・・つまり前回の話でいうところの「有限な全体性」、つまり「不完全な上から目線」=「否定神学的な欠如」を参照しなければならない。その「参照しなければならない」こそが脱構築の敵だとしても、「痕跡=エクリチュール」を参照する前にまずそちらを優先するのが、精神分析の経験則だ。

 この矛盾する二元論は性別の公式とパラレルだ。そして、一般的な二元論は脱構築の格好の素材だが、相矛盾する二元論も同様なのか・・・、それが一つの賭けだ。

 一方精神分析の賭けは、エディプスを構築しそこなったときに、ファルス以外によって作られた綴じ目を解きほぐす=「欲望の横断」を実施することだろう。それは「未だ=既に」構造としては矛盾だ。

 ・・・そんなこんなで、オレたちはデリダ対ラカンをまるでモスラ対ゴジラのように扱おうとしている。これは彼らにとって不幸なことではないが、オレたちにとって不幸なのかもしれない。「無限な個別性」対「有限な全体性」、あるいは「女性」対「男性」、「他者的享楽」対「ファロス的享楽」、「不可能性」対「禁止」といったような対立軸は、単純に足して100%にならない、決して相互補完しない、つまり次元の異なるものだ。言い換えると本来対立軸とはなりえないものを、単純に対立軸として扱ってしまうところの、ロジックの危うさと、そして一種の爽快感が怪獣の対決を呼んでしまう。







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