精神分析の弁証法
精神分析の弁証法にはいくつかのパターンがある。
まずは在と不在の弁証法で、これはフリュストラシオン、Versagungと深い関係がある。
次に、善[=財]や美に関する弁証法で、善や美は、所有しようとしても(本質的に)所有できないものだ、ということを含意する。
汝何を欲するか、という質問に対しても、在と不在の弁証法で学んだことにより、主体は、あまりストレートに答えることができない。
さらには、これはより大胆に言えば、という留保付きだが、エロスとタナトスを弁証法的に表現すると享楽となる、・・・このような概念把握へと至る。
いずれにせよ、たとえば「知っていると想定された主体」(あるいは、ソクラテスの「無知の知」)のように端的に表現されてしまうと、なかなか理解しにくいのがミソだ。
その理解しにくい理由は、そこに主体のやむにやまれぬ欲望が強く浮き出て、それを取り巻くあらゆる関係者(まさにこれを読んでいる[=書いている]オレたちを含む)に対して、その欲望の影響が及んでしまうような現象は、何ごとも客観的に理解しようとする科学的思考では、なかなか把握が難しいだろう、という事情による。