レバンテ対バルサ
リーがエスパニョーラ第12節、レバンテ対バルサ。
この試合をよく見直してみたら、実にバルサらしい敗北だということが分かった。
「バルサの哲学」と「現実的対応」のバランスが悪かったというよりは良すぎてダメだった感じ。
もう少し哲学とともに殉死するか、あるいは哲学を捨てバルベルデの適応能力にすがるか、どちらかを強く選べばもう少しまともな試合になったはずだ。
バルサはポゼッションに失敗することを前提としていない。
それが失敗すると高速カウンターを食らう。
2点目を取られる寸前のポジショニングをストップして眺めていると爆笑してしまう。
実にバルサだ、昔からずっとそうだ。
具体的な問題がどこにあるかというと、メッシとスアレスが守備をしないとか、グリーズマンが守備をしすぎるとか、デ・ヨングが前に出すぎるとか、左サイドバックが攻撃参加しすぎるとか、センターバックのポジション取りが悪く間が空いたとか・・・ではない。
単に中盤をすっ飛ばされた時の戦術を忘れてしまったのだ。
それを思い出せばまあまあの戦いはできる。
哲学は不変としても、戦術の基本は相手と同じことをやるか、あるいはまったく別のことをやるか、この二つしかない。
どちらを選んでもバルサの選手ならうまくやるだろう。
ドストエフスキー
ドストエフスキーが何を語りたかったのかはどうでもいいが、少なくとも当時のキリスト教のあり方に問題があると考えていたようだ。
それどころか神なき世界の・・・すなわち現代的な慄然とするような暴力的犯罪について、少なからず予言的役割を果たしている。
あるいは神なき世界が生んだ矛盾によって不可避になってしまった心の病も予言している。
とはいえ、彼を神格化することは実にくだらない。
フランス料理
そういえば某フランス料理屋で飯を食った。
普通にうまかった。
とはいえ、量が多いのは仕方あるまい。
パンが美味しいからといって全部食べると、最後にデザートを食べられなくなる。
エド・シーラン
この映画(イエスタディ)の中でエド・シーランは「負ける」役を演じてくれていて、それはそれでありがたい。
実に偉い。
尊敬に値する。
イエスタディ
イエスタディという映画を観た。
オレの一部はビートルズでできているのでこういう話は大歓迎なんだが、これでいいのかという思いも多少はある。
78歳のジョン・レノンが今をどう思うのか、もっと訊いてみたいような気もする。
でも、単に歳を取った有名人の言葉にしかならないだろうことは容易に推測できるから、気にしないようにしよう。
私は脳ではない
毎度思うことだが、M・ガブルエルの真骨頂は(後期)シェリング論で、『世界は存在しない』的な一般に対する教育的展開や、「唯脳論」的な思考に対する反論は実に雑だ。
雑だからといって、間違っているわけではないが、現代の哲学としての役割は雑だけではなかなか難しい。
それなりの論理と科学的発想に対するアピールがないと、現代の哲学と認められないような・・・そんな雰囲気がオレたちをダメにしているのかもしれない。
大陸哲学と英米哲学には大きな壁があって、それをいかに乗り越えるか、というテーマが必要な気もするが、まーその辺は気にせずドーンと行けばいい。
今は哲学者が生きにくい時代だと、哲学者関係者は思っているかもしれない・・・でもそれは、昔からずっとそうだから、頑張るしかないですね。
仕事のできない奴
仕事のできない奴は、すぐに他人のせいにする。
自己正当化から話が始まると、何となくうんざりする。
プロレスのオモシロさ
プロレスのオモシロさは、プロレスが好きではないとわからないかもしれない。
ではなぜ好きになったのかというと、そこに奥深いものがあるからだ。
そういう意味ではサッカーと同じだ。
サッカーのオモシロさ
サッカーのオモシロさは、サッカーが好きではないとわからないかもしれない。
ではなぜ好きになったのかというと、そこに奥深いものがあるからだ。
そういう意味ではプロレスと同じだ。
仕事の進め方 [サラリーマン]
とにかく途中からでもいいから「この仕事の終わりは何か」を考えて、そこに向かって走る。
自分でそれが見つけられないと(人に言われてやっているうちは)、仕事ではない。
作業だ。