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ソーカル事件は素晴らしい


 ソーカル事件からもう20年以上経つのかと、時の流れに愕然とする。

 1994年、ソーカルという物理学者が現代思想の難解な文体を真似てテキトーに論文『境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて』をでっち上げて、思想系の雑誌に投稿したら、「ポストモダン哲学批判への反論」と受け取られ、そのまま掲載されてしまった・・・という素晴らしく、かつ楽しい事件だ。

 とくにソーカルがやり玉に挙げていたのがラカンだ。たしかに彼の数学に関する文章は、もしかするとオレと同レベルではないかと思うくらい間違いが多かったりするが、オレと同レベルということには無関係に、気にしたことはない。大文字の他者に基づいて彼の意図をくみ取って読んでしまうからだ。

 さて、この事件がもたらす教訓とは何か。もしかすると、デタラメの論文がまともに受け取られてしまうのなら、カルスタ系ポストモダン思想そのものがインチキなのではないか・・・と考える人がいるのかもしれない。

 しかし、そうではない。それを言うなら分析哲学や科学思想系を除いた、現代思想のほとんどがインチキだということになる。

 まーそれでも個人的には困らないが、たぶん教訓はそうではない。

1.ソーカルの書いたインチキ論文は、彼の意図にも関わらず実は大変意味のある論文だった。

2.もちろん雑誌は、その論文がインチキだということを知っていながら掲載した。

3.そもそもソーカルはそんな論文など書いていない。

4.ふーん、そんな事件があったなんて、知らなぁーい、興味なぁいしぃー。
 
 これらは以前紹介した鍋の論理なんだが、ポストモダン系の思想家たちの反応がこんなレベルだった、というのが教訓だ。そしてこの教訓には続きがある。

 それにもかかわらず、ポストモダン思想は守られている。必要とされている。もういらないモノだとされているのかもしれないが、ソーカルが暴露したポストモダン思想の基盤の危うさは、実はポスモダン思想の強力な核であり、その愛好者を魅惑している。つまり「無意味性」を隠す幻想の見事さが彼らを虜にしている。それはまさにオレたちが気付かなければならない人生で大切な出来事だ。

 さて、ソーカルによって幻想を奪い取られたポストモダンの民はどうしたか。彼らはまた別の、より確かな幻想へと飛び付いた。ソーカル事件など忘れたふりをしたかもしれないし、人によっては分析哲学という、より暴露されにくい幻想に宗旨替えしたのかもしれないし、オレのように「無意味こそわが墓碑銘」とか言って笑っているのもいたし。

 ソーカル事件がなかったら、社会人になって再びデリダやラカンを真剣に読むことはなかっただろう。だからソーカル事件は素晴らしい。

 また誰かインチキ論文をどこかの雑誌に書いてくれないかな。




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