ラカンを参照点としたくても、もはや材料とするネタがない。
とすれば、小文字の父の名として、ミレールを参照点とすればいいのか、というと、それもまた、違う何かだ。
小さい父の名がウジャウジャしているのが、適切な構造だとしても、そこに母を持ちこむだけの隙間ができたような気がする。
精神分析は、簡単に他者と触れ合うことができる。
なぜならば契約のもと、被分析主体が、分析者のもとに現れるからだ。
しかし、日常では簡単ではない。
それは待ち望まれているとしても、保証は何もないからだ。
そしてそこに情動を見出すべきなのかどうか。
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