ファロス=ロゴス中心主義
結局ラカンはファロス=ロゴス中心主義で、デリダはそれを批判している・・・という図式が一番妥当なのかもしれない。
ラカンの性差の図を見ればそうではないことがよくわかるが、それにしても二元論がほぼ同値(比較不可能な同値だが)になっていることは、デリダとの違いと言えるだろう。
より正確にいえばラカン的主体は「憑依」の性格を持っている。それがデリダ的な「幽霊」と近似的なのかどうか、知る由もない。
欲望を諦めないことで、欲望の主体として存在し続ける。
あるいは、享楽の主体であろうと努力する。
それだけが精神分析の倫理だ。
デリダは書きつづけることで、それを実践した。
超越論的な側面と、実践的な側面の二つで彼らは類似している。
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