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郵便的脱構築


 東浩紀によれば、デリダとラカンを分かつ最大のポイントは「論理的(ゲーデル的)脱構築」と「郵便的(デリダ的)脱構築」の違いだとされている。

 その違いについては『郵便的』に詳細に書いてあるのでそちらを参照いただくとして。

 オレが「多数性の罠」として危惧しているのは、多数であろうとも単数と同様に「否定神学」的になりはしないか、ということだ。

 郵便的複数性、もっと言うとリゾーム的多数性の行き着く先は、事実性の強調による可能性の排除となる。ネオプラグマティズムとの親和性が高い主張になっていくだろう。

 ところがデリダの脱構築は、それとはべつに「形而上学」的な趣を残滓としている。

 代補やエクリチュールの考え方は、思考の不可能性を指摘すると同時に、思考体系の内部的な可能性の条件にもなっている。

 これは東の区分では「論理的脱構築」として考えるべきだろう。

 ラカンの側から言っても、脱構築思考というよりは、むしろ主人のシニフィアンの形式をそのままモノとして捉えざるを得ないような<一者>という用語を提唱するなど、脱構築とはまったく別の展開も見せている。

 結局、この二人の思想の差異を眺めるには、脱構築を二つに分けて考えることは、有効だが、不充分ということになる。

 当然浅田彰、東浩紀といった面々は、このあたりの事情を深く詳細に理解していながら、「チャート式」として明確な図式を提供しているだけだ、ということを蛇足として書いておいて、この話はおしまい。




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