男性か女性か、それが問題ではない
確かにラカンやジジェクの理論的変遷を眺めると、男性⇒女性となっている。だからすべての論理の流れがこれで行ける、と考えるのは誤り。
超越論と限界論の双方を意識しながら論理を展開していかないと、間違う。例えばアキレスは亀に追いつくか追いつかないか、という話なら当然超越論の方が考えやすい。つまり得意不得意があるわけで、その流れこそがすべてではない、と考えるべきだ。
ラカンの場合は、症状の重症化の方向へと進んでいた。臨床的な要請が「すべてではない」の論理を必要とするから、そうなっただけで、つまり偶然だ。
ジジェクの場合は、オレにもよくわからないが、革命の実践というのは超越論的に語りにくいのだろう。より戦術的に、より具体的に、というわけだ。
いずれにせよ、超越論と限界論・・・ごくごく単純に言い換えると理論と実践・・・実はこの二つは相容れないものだったりするが、この話はまた別途・・・の「両論併記」によって、普遍的な記述がはじめて実現する。「普遍的」の意味は、普通考えられているものとは相当違うが。
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