車の運転
日本に比して、ということだが、車の運転は荒い。
決して譲らない。
あれは国民性なのか、単なる勢いなのか。
中華料理
中華料理を山ほど食べた。
どうしてツアーであんなに食べさせるのか。
と思ったが、逆に足りないとたくさん文句が出るに違いない。
プラグマティズム
ただ、理論的に非法則的一元論をゴリゴリ押し通すのはやや無理かと。
このあたりはまだ個人的に探究中だが。
きっとオレ自身はプラグマティズム方面に寄ってしまうんだろうな、という予感はある。
魂の柔軟性
個人的には魂の柔軟性が異常を生むという感覚が強いので、分析哲学方面とは相性が悪いんだが、セラーズやデイヴィドソン方面には、異常心理学を受け入れつつ科学的実在論をそれと同居させるための、研究の余地はあるとみている。
全体論
全体論的な調和を重視した斉合説をもとに一元論を語るという離れ業によって、デイヴィドソンは持論を主張している。
それでいいのか、という気もするが、オレはもともと異常心理学的興味から哲学の世界に入っているので、経験的感覚をもとにした基礎付け主義にはなかなか馴染みにくい。
哲学の位置
哲学者や哲学理論は、哲学書を読み込むことで理解できるようになるが、その哲学史的な位置づけはそれだけでは難しい。
それらを俯瞰的にあるいは哲学史的に解説した本を見つけて、理論の理解を深めていくことが好ましい。
投資信託の乗り換え
投資信託を乗り換えるときは、売って換金したそのままの額(税引き後)で、次の投資信託を買う。
債券への投資
国内債券は、この低金利でなかなか難しい。
海外債権は為替変動のほうが値動きが大きいという考え方もある。
世界経済株式への投資 [株式投資]
世界経済株式全体への投資は、FTSEグローバル・オールキャップ・インデックスやMSCIオール・カントリー・ワールド・インデックスに連動する投資信託を買うということになりそう。
金投資
金投資をすべきかどうか。
というか、オレの場合は、金の価格に連動する投資信託を買うべきかどうか、という判断になる。
インフレに対するリスクヘッジという考え方もあるが、この低金利時代にそんなことを心配することはない、というのが普通か。
配当狙い 続き [株式投資]
とはいえ、本当の問題は、3割ほど値下げした場合、どう判断するか。
つまり今後も業績が悪くて配当額が減らされそうな場合、損切りのタイミングをどう考えるべきか。
配当額が減ってからだと遅いのか否か。
なかなか難しい。
配当狙い [株式投資]
配当狙い銘柄を所有しているが、予定以上に上昇してしまった場合、どれくらいなら利益確保すべきか悩む。
つまり、例えば、配当4%の株を持っているとして、買ってから20%ほど上昇したとすると、配当見込み5年分の利益が見込まれる、さて、売るべきか否か、という問題だ。
これはさらに上昇が見込まれる場合、配当額が上がることを期待して、持ち続けるという手もあるだろう。
面談続き
人によっては、説教めいたことも言わなければならない。
言わなくてもいいんだが、人によっては言った方が良いと判断したりする。
この判断がなかなか難しい。
面談
若い社員の面談は、いろいろあって面白い。
こちらの立場として、甘やかさず、厳しくしすぎず、のバランスが難しい。
鼻当て
メガネの鼻当て部分をネットで注文する。
オールシリコン品なので長持ちしないような気がするが、とりあえずこれで使ってみよう。
概念枠は過程的か
というわけで概念枠を考えるに、過程的=仮定的と捉えるのが自然のような気がする。
単なる思い付きで書いておくと、認識(解釈)のための先行理論が概念枠に相当するというのは言い過ぎか。
概念枠と意味領域
M・ガブリエルの意味領域(対象領域)は、その意図からいうと分析哲学の「概念枠」に近い・・・と仮定してみよう。
そうすると、デイヴィドソンの概念枠(というか二元論)批判を考えると、ガブリエルの意味領域がたくさん乱立している図は、相通じない言語がたくさんあるのと同じ構図といえないだろうか。
ガブリエルはドイツ観念論をベースにしているので、分析哲学的な発想とは「言語が違う」という話になるのかどうか。
少なくともオレはその両部門をそれなりに理解できるので、オレ自身は少なくとも「言語は同じ」と言ってよいような気がする。
とすると、ガブリエルは(以下略)
分析哲学
いろいろ考えてみたが、ヴィトゲンシュタインは分析哲学の端緒にいるが、その立場は分析哲学的ではない。
ある意味行動主義的ともいえる。
というか、それ以外にはあまりない。
説明の仕方続き
もしかすると、オリジナルな説明の仕方を、学校の論文で求められている関係で、彼らは、当たり前の説明とは違った表現を追及する習慣が身についているのかもしれない。
だから説明の仕方が変なのかも。
それが本当だとすると、ある意味「著作権」の弊害といえる。
説明の仕方
説明の方向性が変と言えば、セラーズの説明は非常に変だ。
なぜこういう説明の仕方をするのかいまだに理解できない。
たぶん誰か(古い哲学者)の真似をしているんだろうが、だからといってそれが効果的とはとても思えない。
とはいえ、セラーズは信頼に値する。
それはなぜだろうか。
セラーズに対しては寛容の原則が働き、エヴニンには働かないということだろうか。
エヴニンによる寛容論の説明
エヴニンによるデイヴィドソンの寛容論についての説明は、一般的なものより一歩踏み込んでいる。
デイヴィドソン自身としては1975「思いと語り」辺りからそれが顕著になってきたようだが、誤解を恐れずにものすごく単純に言うと、「被解釈者が偽の場合、それが解釈者によって合理的に説明できれば、被解釈者が偽と考えることも問題ない」を寛容論は含んでいる、ということだ。
だからなんだという気もするが、細かいことを気にする分析哲学者にとっては結構重要だと思う。