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精神分析と鍋の論理


 デリダでお馴染み(真実の配達人P98,P113、抵抗P21)の鍋の論理とは以下の通り。そもそもはユダヤのジョークで、フロイトの論文「機知」(著作集P282)で、知られるようになったと思われる。「貸した鍋を返してもらったが、穴があいていた」と怒っている相手に対する反論という設定だ。

(1)鍋を無傷で返したに決まってるだろ。
(2)だって借りたとき、すでに穴があいていたんだぜ。
(3)そもそも、鍋なんて借りてないし。

 見事な論理破綻だが、目的は一つだ。つまりは言い逃れ。

 相互矛盾する多層構造によって、一つの欲望を果たそうとしている。論理的に破綻していようと、人間の心理はこのように機能する。・・・という前提に立てば、ヒトは所与では論理的に狂っていることがよくわかる。

 ここがわかると精神分析が、なんとなく身近なものになる。そんなものが身近にならなくてもいいという人が圧倒的多数だろうけど・・・。

 論理的統一性より欲望を優先してしまう、この人間の性(さが)・・・。ここがわからない人は、精神分析方面を諦めて、是非分析哲学や科学的思想方面へ飛んでください。

 さて、人はオトナになるために「人格の統一」が求められる。それ以前は「寸断された身体」というわけだ。身体の各所(栄養吸収や排泄に機能する箇所)がそれぞれ勝手に反応しているだけだ。

 「寸断された身体」という段階を脱し、一個の統覚的人格として自らを捉え、象徴的な社会生活の一員となるのが「人格の統一」だ。それが為されないとオトナにはなれない。象徴的な世界把握(顕著な例が言語の獲得)や社会の一員としての生活(学校で友達と仲良く遊ぶ、など)ができない。

 精神分析では、大人になるための通過儀礼というか、最も普遍的だとされる幻想が「エディプス」といわれている。まー今さらエディプスがどうしたとかいう人もいるだろうけど、それは幻想や妄想として成長のために役立っている・・・ということに、ここではしておく。





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