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何が楽しいのか [相互受動性]


 毎日毎日飽きもせずここで書いているが、いったい何が楽しいのか。

 たぶん、何も楽しくない。相互受動性の一端として、材料を投下しているだけのことだ。

 オレたちに明日はない。昨日もない。今日もない。あるのは、ただ誰かがオレの代わりに日記を読んでくれる、という「思い」だけだ。




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オレの心 [相互受動性]


 オレの心は、美しい心を求めている。そして、オレの身体は美しい身体を求めているに違いない。

 とはいえ、実はオレはなにも求めていない。コミュニケーション・・・しかし、繋がらないコミュニケーションで充分だ。・・・つまり、相互受動性で満足できることが多い。



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表現 [相互受動性]


 表現の手段がある人は幸せだ。こんなところに日記を書いているのは、単に相互受動性の効果に過ぎず、表現とは言えないんだが、しっかりと自分の言葉で何かを表現できて、少なからぬ人に受け入れられれば、それは幸せだ。

 ただ、それがマスを相手にしたものならいろいろと懸念することが出てくるだろうが、今やもう「マス=大衆」は存在しない。例えば、インターネットでそれに相当する類似概念は「モノを言う群衆」だ。

 表現でお金を取ってしまう場合は、相手を「客」として捉えてしまうと経済的消費者としての側面が強くなるが、しかし表現やメッセージの受領者、あるいはパートナーとして捉えるならば、芸術的な意味合いが出てくる。ただし、これは捉え方の問題かもしれない。



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日記の書き方 [相互受動性]


 この日記は楽だ。ネタを考えずに済むからだ。つまり、ネタを書かない。では何を書いているかというと、何も書いていない。

 いよいよ「何も書いていない」ということが明らかになってしまった。そう、これが相互受動性のおそるべき力だ。「読むことを節約するために、書く」という一見何のことやらわからないことが、今ここで実践されている。



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日記を続けることについて [相互受動性]


 日記を続けるコツみたいなものがある。それは、反応を気にしないことだ。

 よく、アクセス数とか「いいね」とかコメントとかを気にする人がいるようだが、それは単なる結果で、コミュニケーションではない。そもそも日記はコミュニケーションではなく、日記は日記。それ以外のなにものでもない。

 日記の主な役割は出来事の備忘録だ。そして、感情の記録だ。思考の変遷だ。日記は過去の自分を知るためのツールであって、人さまと共有すべきものではないと思う。なのに、公開しているのは、相互受動性の中で生きるための「術」に過ぎない。

 厳密に言うと、相互受動性とは、相互能動性(インタラクティヴ)の補完的な概念であり、いつもは見えないものだ。「インターネットはコミュニケーションツールだ」という相互能動性の考え方の裏には常に、「インターネットはコミュニケーションツールではない」という相互受動性が寝そべっている。逆に相互受動性があることによって、相互能動性、つまりコミュニケーションが成立している、という一見矛盾と思われる現象を、オレたちは理解しなければならない。だからオレはあえてこうやって日記を公開して書いている。もちろん同時に後悔して書いている。

 そもそも言語自体にその矛盾が内包されている、ということでこの話を終えようと思うんだが、それについては数多くの思想家が指摘しているので、オレのようなアホが今更なにを書いても後の祭りだ。

相互受動性についての参考 url






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日記を書く人 [相互受動性]


 一応書いておくと、オレは多重人格者で日記を書く人は別のオレだ。オレと別のオレの区別はつきにくいが、日記を書いているのはいつも別のオレだ。

 ちなみに日記を読むオレは存在しない。だって相互受動性の影響下にあるから読まない。

 つまり、日常生活を送るオレと、日記を書くオレの二人いるということになる。


 ・・・・・・という設定を、このブログを始める前に作ろうと思ったんだが、意味がないのでやめた。



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本を買ったらおしまい [相互受動性]


 前回の続き。本を買ったらそこでおしまいだ。これは、ここではしつこいほど書き続けているけど「だからなんだ」という説得力しかない「相互受動性」の考え方からすると、つまり読まずに済ますことをいう。買えばいつでも読める状態にある。その状態で満足している。

 だから本屋で立ち読みをする。

 知的持久力が崩壊しつつあるので、難しい本の立ち読みは無理だけど、易しい本をじっくりと考えながら読むのは時間を忘れる。



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ミレニアム [相互受動性]


 スティーグ・ラーソンの『ミレニアム』をダラダラと読んでいる。あまり好きなタイプの小説ではないが、話は相当おもしろい。今は第二部を読み始めたあたり。第一部を読んだのはずいぶん前だったが、本を買っていたことさえ忘れていた。おもしろいから次も買って読もう、という気にはならない。つまりまとめて買わないと読まない。オレにとってはそういう類の本だ。

 オレが読まなくても売れるだろうし、売れているならわざわざオレが読まなくてもいいだろう、という気持ちが強い。これもまた相互受動性の論理だ。だからオレはベストセラーが嫌いなのかも。

 第三部が部屋のどこかに埋もれているので、きっと年内には全部読み終えるだろうが、感想は特に書かない気がする。いやほんとに話はおもしろいと思うんだけど。天国にいる作者には申し訳ない気持ちだ。おもしろいというだけでは、本の購買意欲につながらないというオレの脳細胞がどうかしているということで許してもらおう。一応全部買ったわけだし。アーメン。

 あ。そういえば『名探偵カッレくん』は大好きだった。愛読書だった。それを思い出した。



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思想は死んだ [相互受動性]


 というわけではないが、思想を殺すのはたぶん、簡単だ。

 オレは今、相互受動性の影響下にあり、思想のことを考えないようにしている。考えてはいるが、オレ以外の誰かが考えていることにして、オレの考えではないふりをしている。そうすることに何のメリットがあるのかはわからない。狂気の沙汰かも。・・・ということを背景にして、思想の終わりについて考えてみる。

 前回書いたように「普遍的かつ絶対的に正しい」ということはない。それは神の領域で、オレの領域ではない。人間の不可能性さえも超えている話なので、さすがにそれについては沈黙するしかない。

 可能なことについて、つまり科学的思考については、1+1=2ということを考えるのに似ているので、これは間違いなくオレ以外の誰かが考えてくれていることだろう。コンピューターが考えていることにしてもいいし。

 問題は「不可能性を思考する」ことだが、それについても「不可能性を思考することは無駄だ」、ということにしてしまえば考えずに済む。

 はい。思想は終わりました。以上。





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なんのために自分の日記を読むのか [相互受動性]


 ときどき自分の日記を読み返す。当たり前だ。一般的には、過去を振り返り、明るい未来を形成するために日記を書くだろう。しかしオレの日記はあまり読み返しても未来にはつながらない。

 とすると、なぜ日記を書くのか、という根本的な問題が再度登場する。

 相互受動性の観点から言えば、日記を書くことは相互受動するための材料の提供で、つまり「読まないために書く」、という一見矛盾した目的を持っている。

 それでは過去の日記を読むことは矛盾ではないのか。いや、そうではない。あとで全部まとめて読むことがないように、いま断片的に読んでおく、ということだ。

 つまり、このように、常に経済的な事情が働いている、ということにしておけば、なんとなく筋が通っていると勘違いする人が出てくるだろうことを期待して書いている。


 さて、屁理屈はともかく、過去の日記を読む動機、あるいは欲望、もっと言うなら享楽とはなんだろう。たぶんそれは過去の自分をバカにするために、言い換えると過去に対する今の自分の優越性を確認するために読むと思っている。



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日記を書くほどヒマじゃない [相互受動性]


 オレは忙しい。平日は毎日会社に行っているし、休日は妻と出かけたりしている。毎日掃除している。風呂にも入っている。ときどき赤ワインを飲んでいる。つまりオレはヒマじゃないのだ。日記を書くヒマなどない。

 日記など書かない。ましてや読むヒマがない。あー何にもできない。あーあー。何にもできないしやりたくない。だから日記を書かないし読まない。

 というわけでオレには日記を書いているという意識はまったくない。じゃあ今書いているこれはなんなのか、と言われても答えようがない。きっと相互受動性による特殊効果というか、ある種のイリュージョンだろう。



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インターネットは癒しだ [相互受動性]


 というわけでまた相互受動性の話だ。同じ話を何度すれば気が済むのかといえば、気が済まないから書いている。要するにうまく書けていない、ということなのか、うまく考えていない、ということなのか、うまく書く気がない、ということなのかあるいはその全部なのか。たぶん、それほど深く考えていない。

 インターネットは、「見ない、読まない」「誰かが代わりに見て、読んでいてくれているはずだ」という経済性によって成り立っている、という話を今までしてきた。つまり、もちろんオレたちはインターネットでいろんなものを見たり読んでいるわけだが、圧倒的に見ていない、読んでいないもののほうが多い。興味がなかったり、単純に探せなかったりすれば、当然見ないからだ。そういう意味で、見ていることよりも、見ていないという事実をクローズアップして考えている。

 だからオレたちはインターネットを繋げ、中に入り込み、さまよいながらも、「見ない、読まない」ことで何とかバランスを保っている。心的経済性という観点からは、癒しとなっている。もしかすると見るかもしれない圧倒的な文や画像、映像を、無意識のうちに見ないで済ませている、というのは、そうすることがオレたちの癒しになっているからだ。

 ・・・というようなへんてこな論理を、オレは考え続けたい、という欲望が強い。だからこの話をやめられない。



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ブログが重い [相互受動性]


 ある特定の時間になるとブログが重い。重いことに関してはどうということはないが、アップしている最中にどこか異空間へ紛れ込んでしまわないか心配だ。でもしつこいようだが相互受動性の考え方からすれば、なにをアップしようと異空間へ紛れ込もうと、大文字の他者が読んでいてくれるのだから大丈夫。安心して異空間へ飛ばそう。

 しかも重いということは他人の文章を読まなくてもよいということだから、これまた相互受動性の観点からは問題なし。極端な話、サーバーの容量を落として、もっと重くすればいい。

 でも、そんなことすると、誰もソネットのブログをやろうなんて思わないよな。相互受動性の観点からもそれは少しまずい。少しどころか大変まずい。

 というわけで、広大かつ深遠なる思考の結果をここに宣言します。ブログは軽いほうがいいと思います、ソネットさん



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仮説としての相互受動性 [相互受動性]


 インターネットが「相互受動性」という言葉によって説明できる可能性がある、という程度のことからだんだん話が大げさになって、まるで「インターネット=相互受動性」だ、というネタにしてしまっているんだけど、それほどの話ではない。単なる思い付きによる仮説だし、違うと思う人がいるならそれはそれで正しいと思う。つまり、多面あるインターネットの中の、ある一つの面を記述しているに過ぎない。

 この言葉はジジェクによって広まったと思うけど、元々の考え方はラカンの「大文字の他者」からきている。大文字の他者というのは、人間がなにかを考えるときに、なんとなく客観的な立場から考えるんだが、その立ち位置の中心のことを擬人化したのが「大文字の他者」だ。いやこの説明はものすごく大雑把だからね。

 その立ち位置を認めつつも実践が伴わず、「大文字の他者」がやってくれるだろうと考えている様子を「相互受動性」という言葉で示している。だから一見あまりいい言葉ではないんだけど、別に良い悪いさえも気にしない、というのがオレの言っている「相互受動性」だ。「やらなければならない」と言いながら、何をしたらよいのかわからず右往左往する、あるいは明らかに間違っているのに「やらないよりマシ」と言うくらいなら、相互受動性くらいがちょうどいい。

 あるいは、相互受動性を持つものとして人間は不合理な動物なんだけど、しかしそれが人間の長所だったりする、という意味も多少ある。



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インターネットは世界に開かれていない [相互受動性]


 ここでは何度か書いたけど、しつこくまた書く。

 インターネットは世界に開かれていない。もちろん閉じているわけではなく、開いているという可能性はつねに/未だ残されているにせよ、相互受動性の観点から考えるならば、自分に対して開かれている、という事実しかない。

 それぞれの「自分」は当然無数いるわけだから、それが「世界に開かれている」を意味しているのならばそれでもいいが、つまりそれは「読む」ことを保証していない。そもそも読まれることを保証してほしいからここに自分の文章を投げ出しているのか、というとそうではない。

 結果論だが、オレは多数の人に読まれないことを前提として、自分の文章を世界に投げ出している。というか、それを読むのは正体不明な誰かということは認めるが、世界中の人間がそれを読むのはあり得ないと考えている。

 つまりオレたちは、ガラスの瓶に手紙を詰めて、海にビンを流しているようなものだ。確かにインターネットでは知り合いが読むだろう、知らない人も読むだろう、それなりに反応があるだろう、しかしそれが世界に開かれていることなのか、というと、それは違うはずだ。

 相互受動性のポイントはその経済性にある。誰かが忙しいオレの代わりに、オレに対して開かれている、他人の書いたネットの文章を読んでくれる。その「他人の文書」の一つとしてオレは自分の文書を提供するが、それですらも誰かがオレの代わりに読んでくれているだろう。・・・これが相互受動性によるインターネットのあり方だ。

 だからどうだということではない。確かに世界中に広がっているが、そんなことを誰も気にしていないのが、この世界だ。リアルだろうがインターネットだろうがそれは同じ。オレたちはオレたちの心の経済性のためにインターネットを利用している。



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