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メイヤスー論 3 [メモ]


 メモ。

 しかし、メイヤスーとデリダそれぞれが提示した時間概念のあいだには、核心に迫る、決定的な差異がある。メイヤスーにとって時間の絶対的な偶然性(すなわちいかなることも起こりうるということ)は、神的なものが降臨しうるという含みを持った存在論的地位を持っている。メイヤスーは宗教を批判しているにもかかわらず、神は可能だという神論を唱道しているが、それは神が今現在存在しているかもしれないという事態がありうるからではなく、神が将来存在するようになるかもしれないという事態がありうるからだ(『亡霊のジレンマ』)。このことはメイヤスーのなかでももっとも説得力を欠き、もっとも突飛なものと映るかもしれない。私はここで、上のことが彼による時間の理論化における根本問題に起因しているということを論じたい。メイヤスーにとって絶対的な時間とは、破壊の--必然性ではなく--可能性のみを引き起こす「潜在的な力」だ。さらに、時間性が引き起こす破壊的な効果は、偶然性の潜在的な力によって元の状態に戻されうるとされているが、メイヤスーによると、それによって死者の復活も可能になるという。私はこれらの議論が指示できないものだと示したい。というのも、時間の契機なしではいかなる偶然性もありえないからだ。時間の契機は取り返しのつかない破壊を引き起こし、復活の可能性をアプリオリな仕方で排除する。

(無神論P405)




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