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デリダの真理 その2 [メモ]


 メモ。

 そうではない。特異な、伝達不能な真理こそが問題なのです。特異で伝達不能な真理は「ありのまま」に現出することすらないのかも知れない。無意識、--精神分析的な意味でというには漠然としていますが、少なくとも精神分析的なタイプの--無意識のうちに残存していたままでいることもあるのです。にもかかわらず何らかの働きかけを行う[=作品を作る]。それは真理の一様態で、これが物事を変形させ、働きかけ、またこれに働かせ、物事を変容していくのです。変化や革命の生じるときには、いつも何かしらの真理が介在します。啓示というよりもむしろ、変化や革命の話です。もちろん、この啓示が革命的なもので、新しい世界を到来させ、古い世界を一変させる場合は別です。これは真の革命だ、などとそうやすやすとひとは口にしたりはしませんから、むしろ次のような問いを立ててみることにしましょう。ある変化や革命、遂行的な出来事は、どんな点において真理だといえるのか。この問いには、遂行的なものをともなわない出来事すら含まれます。数年来にわたって私か強調してきた主題の一つは、これまで特権的な位置が遂行的なものにあてがわれてきたものの、はたしてそれは、そう考えられているほど、正当化できるものなのかどうかという問題でした。出来事は遂行的でない場合もあるのです。厳守すべき所与の契約=約束事があるとして、これを遵守する際に遺憾なく発揮される支配力という意味も、遂行的なもの=パフォーマティブという概念には含まれています。では遂行的なものを超えた出来事、遂行的とは別な出来事が真理だなどと、言明することはいったい可能なのでしょうか。私は可能だと信じています。私は次のように信じているのです。真理の伝統的な概念を超えた意味での真理、私の関心を惹きつけているこの真理は、つねに革命的=転回的なものだと。お望みならばそれが詩的なタイプの、あるいは、出来事のタイプの真理だと言ってもよいでしょう。公理のタイプに属する真理ではないのです。自己の前にその姿をありありと見て取れるような、伝達することのできるたぐいの真理ではないのです。それは後になって初めて考察を試みることが可能となるような、変化としてあるのです。生じかねないあらゆるリスクを冒してこういった真理を伝達可能なものに変えていくことはできますが、しかし、この真理が到来してきた際には、これを思惟することも、主題化することも、客体化することもできないのです。思惟へとひとを向かわせるものなのですが、ではこの真理自体はというと、これを思惟することは不可能なのです。いわば真理の欲動とでも言えそうなひとつの要請がある。真理の欲動は私の解釈の作業の滋養分となっています。それでいてなお、究極な意味としての真理と一般に呼ばれるものに対する、ある種の警戒心や猜疑心とも両立するものなのです。真理の欲動というものがある。にもかかわらず、この欲動をありのままに呈示しようとするようなまねは私はしません。あまりにも多くの誤解を招き寄せかねないですから。

(デリダ「傷つける真理」P69)





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