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実在論


 実在論って、オレはあまり好きではない。

 なぜならば、誰かが「実在してるぞ、ザマーミロ」と叫んだところで、「だから何?」と思ってしまうからだ。

 そう思う人は実在論には向いていない。

 確かに存在すること、実在することの「ありがたみ」は、表象主義的な思想、相関主義的な思想に欠けているものだ。

 だからといって、それらは蔑ろにされていたわけではない。

 むしろ、「存在」や「実在」を大切に扱おうと思っても認識できないのだから仕方がない・・・という発想が哲学の歴史の多くを占めていた、ハイデガーが登場するまで。

 存在や実在をどう扱うか、ということにはまたいろいろあって、ハイデガーは人間存在として、つまり人間を、自己の存在を自覚する「現存在」として見ている。そこから、「存在」を定義しようと考えた。

 厳密に言うと、自覚する「私」と自覚される「自己」は別もののはずだが、そのあたり(統一の条件など)は曖昧なままにされているのがオモシロい。

 あるいはカントの「物自体」のように、対象の存在を認識可能(ただし思考は可能)として取り扱う考え方もある。ただカントは相関主義的な発想なので、それはそれ、と思考を停止させている。おそらく哲学としては正しい発想だと思う。

 存在や実在をもっと軽く扱って、概念化しやすいモノだとわざと「勘違い」(誤解)した方が、存在論の応用展開としては易しそうだが、ハイデガーにはそういう「軽さ」を良しとしない傾向があるようだ。

 そういう「勘違い」をうまく展開させたのがヘーゲルだ。彼の無理矢理で無茶苦茶な思考展開が、ドタバタと哲学をある種の完成に導いたのだから、哲学史的な一つの成果と言ってもいいだろう。

 ただし、その無理矢理で無茶苦茶なところを、純粋で整然とした論理展開だと「勘違い」するのは良くない。ヘーゲルの抽象的概念というのは、意外と矛盾だらけで、現実対応型だったりするのだから。





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