存在の証明
思弁的唯物論による相関主義批判に対し、弱い相関主義側からの素朴な反論を考えてみよう。
祖先以前的なものに関わる数学的なものは、何を示しているのだろうか。
年代? 特徴? 性質? 一体何の? 存在の?
祖先以前的な数学的なものは過去における存在、あるいは存在の特徴ををほのめかすデータに過ぎず、二次的なものだ。そして、データを通して存在を推測することと、過去の存在を認めることはまた別だ。
確かに過去はかなりの確率でそうだったように思える。だが、それは推測にすぎない。
・・・などと考えてみるに、現在の存在も同様な構造なのかもしれない。
ただ、現在の存在は、数学的なものに加えて、素朴実在論的に視覚的な認知、という要素も可能になる。
相関主義的な対象把握は、その対象自体を認識することが不可能なだけで、現象=影としては認識可能だ。
というわけで、たぶん議論しなければならないのは存在の証明方法だと思う。
どういう認識、どういう思考をすれば、その対象は存在している、と推測できるのか。
それを考えていけば多少議論は噛み合ってくるのかも。
以上、素朴な意見でした。
コメント 0