精神分析の倫理はオモシロい
ラカンのセミネールの中では『精神分析の倫理』(1960)が一番オモシロいと思う。
まずは「ものそのもの(das Ding)」という概念が登場する。なぜそう考えるのかというと、それは欲望の対象とは何か、に対する回答の一つだからだ。ラカンは後に対象aという便利な言葉ですべてを語ろうとするが、この時点では「ものそのもの」というフロイトの概念を準用している。要するに究極の欲望の対象が何だか主体にはわからない、ということ。なにもないものを対象とすることのパラドキシカルな展開について述べている。なので、上巻はそれほど大した話ではない。
下巻はアンティゴネーが理解不明という感想が多いようだ。わかりにくいのは「女性の欲望」というテーマが、この時点のラカンではフロイト同様にうまく説明できていないこと。次に「欲望を諦めない」という考え方と「女性の欲望」という考え方が混乱していること。父親像(「欲望してはいけない」と命令する主語)とは別次元の「(母親的)他者」像を示そうとして失敗しているわけだ。もちろんラカンはわざと混乱(失敗)させているんだが、そんなことでイチイチ怒っていてはラカンは読めない。ラカンを読もうと思ったら、最低限関連するフロイトのテクストをしっかりと吟味しておく必要がある。
アンティゴネーが諦めなかったのは兄弟の埋葬のことだ。権力者によって禁止されたにもかかわらず、それを諦めなかったからアンティゴネーは岩穴に生き埋めにされてしまう。そちらのイメージの方が恐ろしく、なかなか「欲望を諦めない」という実感が得られない。それも下巻を読みにくくしている要因か。
精神分析として一番考えなくてはならないのは、「欲望を諦めたらどうなるか」だ。ラカンはこの本ではあまり直接的に語っていない。フロイトの「昇華」論がその基底にある。非常に簡単に言うと「欲望を諦めたらビョーキになりやすい」ということだ。欲望の主体を「私」ではないものとして扱ってしまう。それは疎外によく似た「ビョーキ」だ。
エディプス経験がうまく働くと動物的な主体は「疎外」され、その代わりに「語る空間」=「社会」の構成員(新しい主体)だと認められる。そこで他者の欲望を自らの欲望として捉えることを学ぶわけだ。
「他者」だの「欲望の主体」だの「無意識の主体」だのいろいろ言っているが、結局それらを自分のモノとして、自分の発言として引き受けなければ、「ビョーキ」になりやすい。
それらこそが「精神分析の倫理」の前提だ。それらがわかれば結構面白い読み物です。
一応オマケで書いておくと、厳密に言うなら、精神分析の倫理の真の姿は「欲望してはいけない」という命令と「欲望を諦めない」という考え方の中間にある。いや、もっと言うと「同時にそれらを実行すること」だ。それがヘーゲルの「アウフヘーベン」を体現したものとなる。
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