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ポジシオン [メモ]


 メモ。

 私はここで、一見矛盾した言い方で答えたい。

 一面において、表現主義は決してただ単純に超出されうるものではない。なぜならば、一方では、内-外というあの単純な対立構造は差延による一つの効果だが、差延によるこの効果を解消するのは不可能で、他方また、ランガージュ(言語活動)は自己自身を、表-現的再-現前化として、すなわちあらかじめ内部において構成されていたものを外部へ翻訳することとして、表象するよう促されるが、このように促すのはランガージュという[差延による]効果なのであり、そして言語というこの効果を解消してしまうこともやはり不可能だからだ。言語を「表現」として表象することは偶然的な偏見なのではなく、一種の構造的囮(おとり)、カントならば超越論的錯覚と呼んだろうようなものだ。そういった超越論的錯覚は、ランガージュ、時代、文化によって変様する。西洋の形而上学がこのような錯覚を強力に組織化していることはまちがいないが、西洋の形而上学にこの錯覚の占有権を保留するのは軽率な行き過ぎだと私は思う。
 
 しかし他面において、私は逆にこう言いたい。表現主義がただ単純にしかも決定的に超出されえないとはいいながら、表現性は、事実上は、ひとはそれが欲しようと欲しまいとにかかわらず、またそれを知っていようといまいとを問わず、つねに超出されている、と。

 いわゆる(「表現」されるべき)「意味」が、すでに徹頭徹尾、諸差異の織物から構成されている限りで、言いかえればそこにはすでに一つのテクストがあるかぎりで、すなわち他の諸テクストへのテクスト的差し向けの網状組織があるかぎりで、つまり「単純な」と称せられる各「項」が他項の痕跡によって標記されているようなテクスト的変形があるかぎりで、意味という規定された内面は、すでにそれ自身の外部から働きかけられているのだ。その内面はつねにすでに自己の外へ赴いている。その内面は、どんな表現作用よりも以前に、すでに(自己から)差延的だ。そしてただこの条件のもとでのみ、その内面は一つの連辞(サンタグム)ないしテクストを構成しうるのだ。ただこの条件のもとでのみ、その内面は「記号作用を行うもの」でありうる。この観点からすれば、どの限りにおいて非-表現性が<記号作用をおこなうもの>なのかとは、おそらく問うべきではないだろう。

(デリダ『ポジシオン』より)


 フッサールの『論理学研究』において、記号から「表現」を抽出しようという発想があった。デリダはそれを精緻に分析して、形而上学の「音声-ロゴス中心的」という隠された思想を暴露している。それを踏まえて記号から「表現」が「超出」されるとはどういうことかという問いに対し、ダラダラと丁寧にデリダは答えている。さらには「どのような限りにおいて、非-表現性は記号作用を行うものなのか」などというクリスティヴァの嫌がらせ的な質問にもキッチリ答えてしまう性格の悪さが素晴らしい。

 このように『ポジシオン』は面白い本だ。特にラカンへの言及が愛憎相半ばする感じで、何度読んでも笑ってしまう。

デリダ『ポジシオン』
ポジシオン

ポジシオン

  • 作者: ジャック デリダ
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2000/02
  • メディア: 単行本




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