クッションの綴じ目
ところが、クッションの綴じ目の思想はそう単純な代物ではない。
主体という場所にそれを代表象するシニフィアンがやってきて、そこで初めて主体らしきものが認識される。
しかし、シニフィアンが主体を代表象するとしても、すべてを覆いつくせない、というかそもそも主体自身が空の場に過ぎない。
そこを中心としてカッチリとした構造物が作られていると思われがちだが、それうではなく、単なる覆いによる効果に過ぎない。
極論すれば、幻想の一種とさえ言っても良い。
そもそも「象徴界」とはそういうものだ。
もはや奔流とか生成では描き切れない不可能性こそがクッションの綴じ目の正体だったりする。
しかし、ポスト構造主義者たちが、その辺りを省略し仮想敵としてやっつけてしまう(マウントをとってしまう)のは、ある種のオッカムのカミソリによるムダ毛処理と考えるべきか。
この考え方を敷衍していけば、観念論とはムダ毛だ、という結論になったりするんだが、それを考えることに意味はない。
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