世界とは何か・・・『ヘーゲル事典』の場合 [メモ]
メモ。
弘文社『ヘーゲル事典』より。
ヘーゲルにおいて世界は何よりも自然界ではなく、風俗、習慣、言語、物の考え方などを紐帯として成立する人倫的世界を意味した。(・・・・・・)ところで世界が人倫的世界だというとき、世界は間主体的関係として、単に個々の主体と対立するものに留まらず、個々の主体から成るものでもある。ヘーゲルはカントが弁証法で霊魂、世界、神の三者を無制約的理念として問題にしたのを承けて、霊魂としての主体の意識において世界は映し出されるとともに、世界は多数の意識的主体から成り立つのであれば、霊魂は世界に、世界は霊魂に相互に転換するとし、そこに両者を統一するものとして絶対的実在としての神を見守っている。この神を概念的に捉えたものがヘーゲルの精神に他ならない。(・・・・・・)そして、カントにおける超越論的主体としての自我が時空世界の外のに立つものなのに対して、ヘーゲルにおいて意識がこのように世界と結びつくことで、自我は対象意識と自己意識との相即のうちに見守られ、これにより自我は世界のなかに埋没するような世界との直接的な結びつきから自己を解放して、世界との対立を通して、反対に世界を自己のものとしていくという仕方で自己を実現してゆくものとなる。(以下略)
弘文社『ヘーゲル事典』より。
ヘーゲルにおいて世界は何よりも自然界ではなく、風俗、習慣、言語、物の考え方などを紐帯として成立する人倫的世界を意味した。(・・・・・・)ところで世界が人倫的世界だというとき、世界は間主体的関係として、単に個々の主体と対立するものに留まらず、個々の主体から成るものでもある。ヘーゲルはカントが弁証法で霊魂、世界、神の三者を無制約的理念として問題にしたのを承けて、霊魂としての主体の意識において世界は映し出されるとともに、世界は多数の意識的主体から成り立つのであれば、霊魂は世界に、世界は霊魂に相互に転換するとし、そこに両者を統一するものとして絶対的実在としての神を見守っている。この神を概念的に捉えたものがヘーゲルの精神に他ならない。(・・・・・・)そして、カントにおける超越論的主体としての自我が時空世界の外のに立つものなのに対して、ヘーゲルにおいて意識がこのように世界と結びつくことで、自我は対象意識と自己意識との相即のうちに見守られ、これにより自我は世界のなかに埋没するような世界との直接的な結びつきから自己を解放して、世界との対立を通して、反対に世界を自己のものとしていくという仕方で自己を実現してゆくものとなる。(以下略)
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