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物自体と私


 物自体をどう考えるか、という問いに対してカントが「物自体を考えるのは無理でんがな」と答えて以来、哲学は新たなる展開を示していた。

 そのような外的世界をどう捉えるか、という設問だけなら、科学的な実在論・・・「必ず、将来、宇宙、極小的世界、あるいは宇宙の始原といったものが判明するはずだ」という楽観的な方向性・・・によって応えることができるし、実際その方向で進んでいる(単にひとつの可能性に過ぎないが)。

 しかし、真の問題は、物自体を把握しようとする「私」とはいったい誰なのか、ということだ。

 「私」をどう規定するのか、というのは非常に難しい。

 一番極端なのはキエルケゴール(単独者)やマックス・シュティルナー(唯一者)だろう。

 ただ、これらの極端に自立的な「私」の姿は、オレには何かの反動にしか感じられない(道徳的定義としてなら理解できるが)。

 あるいはフッサールのように「間主観性」として定義できるのか。

 さらには構造主義的な定義付けがいいのか。

 ・・・等々。

 この問題は科学では考えられない。

 考えられないことには、沈黙するしかない・・・のか。




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