モノとともに生きる
das ding とともに生きる。
その生き方は非常に勇気がいることなので、ま、テキトーに妄想を交えながら・・・。
しかしそれは「女性的コギト」の側に常駐することを意味していない。
なぜならば生きることは、分析家として生きることと同値ではないからだ。
生きることは、同時に被分析者としても生きることを意味している。
「あなたを噛んだ犬の毛」であろうと、それをシニフィアンとして主体を確立させること。
そういうあり方もまた、生きるためのヴァリエーションの一つだ。
さらに言うならば、否定的なモノの近くに住むということは、新たなる「主人のシニフィアン」の誕生を目の当たりにするということだったりする。
分析家のシニフィアンはその直前にしか登場しない。
分析家の言説というのは、儚いモノだ。
だからオレたちは「主体」を他者のトリコにされないように、また闇の深淵の中へ消失させないように、慎重に取り扱っていくべきだ。
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