ラカン的主体について
「ラカン的主体」についてのラカン自身の説明はものすごーく難しい。しかしホントはそんなに難しいことを言っているのではない、ということさえ分かればどうということはない。ラカンに準じているなら、たぶんフィンクも結構難しく書いていると思う。つまり、ラカンは主体について、とりあえず現象学的に語ろうとしていたからだ。
(無意識の)主体はどこにいる→(意識としては)どこにもいない
→主体は外部的(疎外的、他者的)だ
いやまーその通りでございます、としか言いようがないんだけど、突然この話をしたってほとんどの人には理解は無理だろう。観念論的すぎる。ところが、ラカンはわざとそう書いているようなところがある。ラカンって本当はもの凄く性格がねじ曲がっているヤツなんだと思います。
あるいは治療として大事なのはそんな観念論的な話じゃない、ということを加味して読んでいくと明るい未来が待っている・・・かも。
なぜ、無意識の主体は意識からいなくなってしまったんだろう・・・と考えてみる。まずはそこからでしょう。つまり、抑圧の過程をフロイトとともに考えていく、という習慣がないと・・・。いきなりラカンから読もうというのは、少々無理がある、とオレは考えている。
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